キリスト教の聖書を”文献”あるいは”作品”として捉え、そのような学術的見地から翻訳され、解説が付された岩波文庫版シリーズについてレビューしていく。今回は「創世記」。
モーゼ五書
”モーゼ五書”と呼ばれる古代のヘブライ人の聖典はエジプトのアレクサンドリア図書館でも当時の学者によって蒐集され研究された。その結果”ヘルメス文書”が生まれ教会から異端とされた分派が現れた。
主にグノーシス派などと呼ばれる異端は高度な象形文字によって魔術的な文明を築き上げたエジプトで自然発生したように見える。グノーシス学者の世界的権威である荒井献氏の本を読むと、異端と正統の境は当時の教会が役所仕事のように非常に曖昧な線引きで決めたに過ぎないことがわかる。
教会によっていわば”正統派”として認定されまとめられた現在の聖書は、膨大な作品であり文献である関連文書群から人間によって選ばれたほんの一部に過ぎないのであった。
岩波文庫版の旧約はモーゼ五書の中から「創世記」「出エジプト記」だけが出ている。この二つの作品は最も内容が濃く面白いから内容的にもこれで充分であるように思われる。
創世記
「はじめに神は天地を創造された」から始まるこの書の冒頭をここで繰り返すまでもないだろう;可視的・感覚的な物質世界が順番に現にある通りに造られていく。創造で造物主が用いたのはただ”言葉”のみである。
なんの秩序も配列も成さない”混沌”が言葉による命令で次々に元素として形成され、宇宙が出来上がる。私たちの手元には元素の周期表があるが、そもそもこれら原子と電子の配列はどこから来たのだろうか?
原子同士を結合している力・作用力は何者が維持しているのだろうか?マルキ・ド・サドは自然以外に神というものを認めない、と書いたがそもそも自然の力は何によって働いているのか?
そして一番最初に造られる”光”とは一体何なのだろう。光がどんなものなのかと問われれば「それによって物体の色および姿形が視覚で捉えられるようになる何か」だと答えるだろうけれども。
まとめ
さらに奇怪なのは最初の人間アダムとイブの子孫についての記述である。すなわちアダムとイブはカインとアベルを生んだが、カインは最初の人殺しによって兄弟のアベルを殺した。殺されたアベルの代わりに夫婦はセツを授かった。
カインとセツの子孫はノアにいたるまで順繰りに続くが、彼らの寿命と子供を生んだ年があまりにも途方も無い。例えばアダム自身130歳の時にセツを生みその後800年生きた。
セツは105歳の時にエノスを生んでその後807年生きた。その後四代まで寿命900年以上、五代目後から300年以上である。七代後のレメクは182歳の時にノアを生むがその後592年も生きる。
当時の年の数え方がどうだったかはともかく、このような記述からもモーゼ五書は”作品”であり”詩”の一種だということがわかるだろう。優れた詩の持つイマジネーションは預言者の予言と同義だから。
●「出エジプト記」はこちら→旧約聖書【出エジプト記】岩波文庫版・紹介〜作品としてのモーゼ五書