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【夏目漱石】『吾輩は猫である』感想・レビュー〜無常観とユーモアの知的な共存

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アイキャッチ画像:宮城県大崎市岩出山”有備館”床の間

概要

あらためて漱石を読み返しながら気づかされることの多さに驚いてきた。前にも”漱石は偉くなろうとしなかった唯一の作家である”などとわかったような事を私は書いてきた。その気持ちは変わりはない。

芥川龍之介という弟子は一生懸命作家になろうとし文体を工夫しようとしているのがありありと分かる。これに対して漱石は作家になろうとしてなったのではなく、偉くなろうとしてなったのではない。

新潮文庫の解説に、漱石は39才でこの処女小説を正岡子規の主催する”ホトトギス”に出した、とある。まずこの年齢、職業替えするには遅すぎる年代である。ここから漱石はもともと作家になろうなんぞ思ってなかったことがわかる。

だが漱石は漢文能力が凄かった。そこにイギリス留学で学んだ経験がブレンドされた。『吾輩は猫である』は生まれるべくして生まれた。好評を博してシリーズ化され、以後、ちょこちょこと連載が続いていくことになる。

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このようにして初期作品を発表しながら朝日新聞の専属となり、要するに”作家”という職業を持つに至ったが、本人は決して偉くなったなどとは考えておらず、むしろ話を聞いていると昔の生活の慎ましさが痛ましいくらいにリアルである。

漱石は「貯金がない」とはっきり断言する。自分の家のあばら家加減を余すことなく綴る。その家や庭を”吾輩”なる猫が闊歩する。そうしながら猫の目で人間的思考を行うや、人々の滑稽さを笑うやで、興味は尽きない。

猫に作家が乗り移って猫の体を借りて動くところもあれば、単に客観的な視点にしかない場合もある。そういう時は落語調の滑稽話がたっぷりと味わえる。こんなところに漱石の面白味がある。電気は通っておらず、携帯電話もテレビもない。でも、火鉢があり、朝日があり、これを囲んで談笑する人物らがいる。

これこそ、日本人の持つ渋味ではないだろうか。漢文が達者だったので本のページは気取らないまでも知的な漢字や言い回しが満ち溢れている。漱石は偉くなろうとかすごい作品を書こうと思わずに、すごい物を書いている。

この猫が最後に水瓶に落ちて死ぬ事を知っていらっしゃる方はどれぐらいだろうか?『吾輩は猫である』は連載ものなので一話一話がさほど長くはない。しかし最終話はスペシャルだったのか、普段の3倍くらいに長い。

ページ数を埋めるためか序盤は会話体で段落を変え、多くの紙をおどけた人物の対話で占めている。まるで今までの登場人物が勢揃いする同窓会。やがて彼らの馬鹿話が終わり、日は暮れ、火鉢に煙草の”朝日”の吸い殻がたくさん投げ捨てられている。

猫はなんとなくビールが飲んでみたくなった。そこで意を決して飲み残しの液体を舐めてみる。舌にピリッときたが、刺激を乗り越えてグイグイ飲むと、いい気分になりフラついてくる。

千鳥足で水瓶に転落し、甕から上がろうともがく。しかしやがてそれが不可能である事を悟り、「無駄なあがきは止そう」との悟りに達し、南無阿弥陀仏を唱えながらドザエモンとなる。

感想

これが『吾輩は猫である』の顛末である。書き出しだけはあまりに有名でも、ラストはあまり知られていないのではないかと思い、ここに紹介した。漱石の生きていた頃は今のように物が豊富で贅沢な時代ではない。医療も発達していない。

だから作家になって有名になったからって三島由紀夫のように派手な生活をしているのではない。これほどの作家でもそうなのである。よって周囲でも人が簡単に死んでいくし、作家も常に死ぬ事を忘れていない。ごく自然にそうなっているのである。

ユーモアの塊のようなこの小説も、ラストが南無阿弥陀仏を唱える猫の死で終わるのも、そのような風潮を表していると言っていいのではないだろうか。文庫で500ページ以上あるが、たとえ世間の人間が一人も誉めなくとも、この小説は傑作である事をやめはしないだろう。

漱石には多くのことを学んだ。それは漢詩の奥深さ、日本の風流を愛する心、気取らない熱意、死に対して淡白になることなどである。この処女作を読むことで作家の初期がある程度鮮明になり、併せて『道草』や『倫敦塔』『一夜』などと学んで行くにつれ、より理解が深まると思う。

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