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【芥川龍之介】『地獄変』感想・レビュー〜芸術のために我が子を焼き殺す絵師

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概要

『地獄変』が元にしている「宇治拾遺物語」は鎌倉時代の古典で、芥川がよく材料にする「今昔物語集」は平安時代のもの。どちらも古語辞典なしでは読めないけれども、芥川の短編を読んで興味を持たれたならぜひ原典にもチャレンジしてみたい。

芥川の作品は古典をさらに発展させて現代語で解釈しやすくしているが、文章には古語辞典で勉強した方がより理解を高めるであろう用語がたくさん出てくる。まさしく古典の知識があって読むのとそうでないのとでは、読感はまったく違ってくるだろうと思われる。

あらすじ

小説は巨匠の絵師を主人公としている。だが腕前は確かだが性格が最悪であらゆる人に憎まれている。そんな人間が果たしているものだろうか?芸術の腕前と人格は普通両立せねばならない。偉大な芸術は偉大な精神からのみ生まれる。

卑小な人間が創作するものは、その成果も卑小である。しかし『地獄変』は絵師であるどうしようもない人間が、地獄の絵を描いた屏風を制作するために、自らの最愛の娘を生きながら焼き殺す。

絵師

古典の勉強はまだやりかけで原典は読んでないので知らないが、この絵師の不思議なところは、光景を描くためには必ず一回本物を見ないと描けないところである。鎖に縛られる罪人や怪鳥に襲われる亡者を描くため、弟子を部屋の奥まったところで同じ目に合わせる。

逆にいえば実際に見たものは必ず描けるということらしい。一体世界のどこにそんな画家がいるだろうか?従って、屏風絵の主題である、燃えながら落下する平安時代の牛車を描くため、殿様に頼んで郊外で実演するのである!しかもその中には最愛の娘を乗り込ませ、焼き殺される有様をまじまじと見物するのだった。

結果

こうして出来上がった地獄変の屏風は恐ろしい出来栄えで、発注した殿様もご満悦である。だが絵を献上した絵師はすぐ家の梁に紐をかけて縊死したのだった。

さてこの短編の主眼はどこにあるのだろうか、それを少し考えてみたい。醜いものの美しさ、という台詞が話の中に出てくる。醜いもののの美しさとは、真の芸術家のみが直視し筆記できる対象である。

常人が目を背けるものにあえて美を感ずる。作品例ではスペインのゴヤの「黒い絵」シリーズとか、フランスの詩人ボードレールの「腐肉」など。この物語に登場する絵師も、その系列なのであろうが、素晴らしい作品を作るためにやることが、人格を磨くことではなく、実際の実演をすることだとはおかしなことではないか。

感想

この理論だと殺人を書くには人を殺さねばならず、地獄を描くには地獄に落ちねばならないことになる。また最後に絵師が首を吊って自殺するくだりは、作者自身の願望を表しているかのような予言じみた結末である。

私としてはこの短編は平安時代の闇と妖気をしっとりと感じさせる、古典作品の現代的アレンジと言いたい。芥川の生きていた時代は、電灯の一つや二つはすでに灯っていただろう。作者が憧れているのは、すでに歴史の彼方に消えた古代の夜である。

『羅生門』のラストのような闇が、全編にみなぎっている。この暗闇は谷崎潤一郎が『陰影礼賛』で賛美した、または『怪談』の小泉八雲が愛した、日本独特の美でなくてなんであろう。

『陰翳礼讃』レビュー→https://saitoutakayuki.com/hyouron/innei-raisann/

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