休み明けの仕事や学校が怖いあなたへ|文学と哲学で読み解く“時間”の恐怖

エッセー

休み明けが怖いあなたへ──その気持ちは正しい

この文章は、フリーランスや自営業者ではなく、主に「雇われて働く」人たち、あるいは学校に通う人たちへ向けたものです。

カレンダーが関係ない仕事をしている人でさえ、「日曜日だけは堂々と休める」。でも、やっぱり月曜日は怖い。そんな気持ち、あなたにもありませんか?

理屈をこねくり回しても、社会生活が合わない星に生まれてしまったような感覚はどうにもならない。たとえ気休めでも、誰かの言葉で少しでも楽になるなら──そんな想いで、以下を書きました。

連休明けの恐怖

人間、休めば休むほど、次に訪れる「やらなきゃいけないこと」がしんどくなる。これはもう、小学生の頃からみんなが感じていることです。

仕事に行くのがだるい。学校が憂うつ。そんな気持ちは、特別じゃない。むしろそれが“自然な反応”です。

でも、もしその気持ちが日曜日の夜に毎週やってくるなら、ちょっと注意が必要かもしれません。それは少しずつ心がすり減っているサイン。

やりたくないことを無理にやると、心は静かに悲鳴を上げる。「時間」という名の死神は、連休明けに必ずやってきます。

エドガー・アラン・ポー『陥し穴と振り子』

時間の恐怖を文学で描いた作家といえば、エドガー・アラン・ポー。彼の短編『陥し穴と振り子』では、主人公が拷問にかけられます。

振り子の刃がジワジワと自分の身体に近づいてくる──これは、まさに「時間」の恐怖です。物理的な痛み以上に、精神的な苦痛こそが恐怖の本質なのです。

恐怖の克服法その1:「恐怖と向き合い、作品を通じて共有する」──誰かの恐怖体験を読むことは、自分の恐怖を相対化する手段でもあります。

▶️ 『陥し穴と振り子』紹介記事はこちら

プラトン『ピレボス』の哲学

古代ギリシャの哲学者プラトンは『ピレボス』でこう書いています。「魂が感じる苦しみの多くは、“これから起こるであろう苦しみ”への予感から来る」

未来を思う能力があるがゆえに、人間は「まだ起きていないこと」にも怯えるのです。

▶️ 『ピレボス』紹介記事はこちら

ボードレール『時計』──時間は暴力である

フランスの詩人ボードレールもまた、ポーの影響を受けた一人。彼の詩『時計』では、「時」が人間の命を削る刃物のように描かれています。

連休明けのブルーもまた、“時の刃”が首元をなぞる感覚なのかもしれません。

▶️ ボードレール『時計』紹介記事はこちら

恐怖の克服法その2:武士道の精神

和田克徳の『切腹哲学』には、こんな言葉があります。

糸一本にすがって現実を生きようとする感情と、剣一本で死ぬ覚悟を持つ武士の感情──前者は平和の象徴、後者は緊張の美学。

死ぬほど恐ろしいと思うのは、「死なないで済んでいるから」なのかもしれません。戦国時代の武士や昭和初期の兵士たちは、明日の命が保証されない中で、驚くほどの笑顔を浮かべていたと記録されています。

「恐怖を消し去る方法その2:死を超える覚悟=武士道」

もちろん現代において「死ぬ覚悟」は必要ありません。ただ、「死ぬことよりも怖い」と思ってしまう現代人の精神の病理に、少しだけ意識を向けてみるのも一つのヒントです。

▶️ 『切腹哲学』紹介記事
▶️ 『葉隠』解説記事(三島由紀夫による)

「時間」が怖いあなたに

『チベットの死者の書』には、「恐怖は自らの心が生む幻影である」と書かれています。

わかっていても、止められないのが人間の弱さ。夜、布団の中でじっとしていると、不安がモゾモゾと動き出して、眠れなくなる──そんな夜、あなたはひとりじゃない。

▶️ 『チベットの死者の書』レビュー記事はこちら

最後に

「あした、学校(または会社)行きたくないな」と思うその気持ち、本当に正しい反応だと思います。

だからこそ、ちょっとだけ立ち止まって、自分の心の声に耳をすませてください。ポー、プラトン、ボードレール、そして和田克徳。彼らが描いた恐怖は、まさにあなたと同じ恐怖です。

怖がることに、罪はない。

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