これまでも何回かこの書についての記事を上げてきた。しかし過去に読んだ記憶を元にしていたためいくぶんか混乱した内容に感ぜられた。そのため新たに読み直し、ここに書きあらためることとした次第である。
過去のはそれはそれで、そのまま保存してあるので気になった方はそちらも読まれたい 😉 ⤵
◯チベット密教【チベットの死者の書】紹介〜60年代ヒッピー、心理学者ユングにも支持された聖典
チベット仏教【マンダラ】の意味〜「チベット死者の書」についての考察
解説・概要
この本は現在もチベットに伝わる一家に一冊的な経典で、8世紀頃のパドマサンバヴァという聖人が書いたとされる秘教の書。それを13世紀頃のカルマリンパという持明者(ヴィディヤーダラ)が超能力によって隠されていた洞窟から見出し、チベットの人々に広めたとされる。
ヴィディヤーダラとは半人半神のことで人間の能力を超えた知力を得た存在、ミルトン「失楽園」でも言及されているデミ・ゴッドである。人間は知識の樹の実を食して楽園から追放されたが、ケルビムの炎の剣を突破することで生命の樹をも食べ半神になることができる。
◯ミルトンはこちら→ジョン・ミルトン【失楽園】レビュー〜サタンの失墜と人間が楽園に戻るまで(1)
翻訳・歴史
この本を世界に知らしめた最初の人物はアメリカのエヴァンス・ヴェンツである。この奇人の伝説は色々あるようである。輪廻転生に憑かれ大学を出たあとインドへ旅し、ダージリンという都市で地元の若い僧から「チベットの死者の書」を渡された。
ダージリンの英語教師の協力で翻訳を行い、1927年"Tibetan Book of the Dead"として出版した。この本は60年代にヒッピーの礼拝の対象になり、一世を風靡した。というのは内容がケバケバしい幻覚・幻想を扱ったものであり、極めてサイケデリックだったためもある。雑学になるが心理学者C・G・ユングの座右の書でもあった。
のみならず経典自体の内容が死者に対する語りかけという形をとっているので、臨死体験やLSDによる幻視体験にも酷似していたためである。もっともヴェンツ博士自身は一生独身で流れ者の根無し草生活を好んだ人で、サイケデリック・ムーヴメントに参加したりヒッピーどもと関係を結んだりはしてない。
この偉大な書をチベット語原典から見事に日本語に翻訳したのが川崎信定先生だった。バブル時代本屋にハードカバー版が並び、その後文庫版が出るやいっそう親しみ深い本となった。文庫版と言っても訳注や解説の充実度は専門書と変わりなく、興味本位で出した翻訳書ではない。
チベット密教について
チベット密教について筆者がこの本から学んだことを述べる。仏陀が涅槃・解脱の境地(ニルヴァーナ)は欲望の制御、消滅であると説くのに対し、チベット密教は完全な反対である。つまり欲望を制御する代わりに解き放つのである。ここでウィリアム・ブレイク「天国と地獄の結婚」から参考に詩の一節をあげると:
Those who restrain Desire, because Theirs is weak enough to be restrained.
欲望を抑える者は、彼らの欲望が抑えられるほどに弱いというだけなのだ。
従ってヨーガ行者は何をやっても良いのである。もしやりたけさえすれば。おそらく真っ暗な洞窟の壁画に描かれた荒々しい曼荼羅を直視しながら、怒りと狂気にのたうち回ったりもするのかもしれない。チベット密教の曼荼羅では男性の仏と女性の仏が抱き合い、生殖器の結合状態で陶酔している。
ここに真実がある。すなわち涅槃(Nirvana)は、セックスのオルガスムの永続状態に等しい。そして「チベットの死者の書」にも書かれているように、仏の身体は不滅で光り輝き、何物にも例えられないほどの美しさ・完全さを持っている。
解脱せんとするヨーガ行者の欲望、欲するのはこれなのである。この本は解脱するための指南書、しかも子難しい理屈は必要とせず「読むだけで解脱させる」「聞くだけで解脱させる」「見るだけで解脱させる」教えなのである。
◯「天国と地獄の結婚」はこちら→ウィリアム・ブレイク【天国と地獄の結婚」】「知覚の扉」プレート版画について
全体構成
本は全体で大きく3部に分かれる。まず説かれるのが「チカエ・バルドウ」である。ここでは死んだばかりのヨーガ行者の耳元で、僧が「汝に現出してきている”存在本来の姿”を捉えよ」というお経を唱える。通夜に例えて言えばいわば生と死の中間状態に近い。
2部では14日間に渡って存在本来の姿である、男女両仏と神群がヨーガ実践者の目の前に現れる。前述した眩い姿の幸せな仏たちが、男女抱き合ったまま幸福な姿を見せつけるのである!それに対して瞑想の実践者は孤独で、暗く、恐ろしく、惨めな死の牢獄で腐っていく肉体を纏ったまま苦しむ。
激しい乾きや欲望と、仏たちの身体と生命、快楽と幸福、優れた知恵などに対する嫉妬に加えて閻魔大王の脅迫にも耐えなければならない。これこそがバルドゥの難関と呼ばれる、解脱するための試練なのだ。それはあたかもイスラム教徒の教える地獄に架けられた天国への橋のようだ。その橋は蜘蛛の糸よりも細く、剃刀よりも鋭く、悪人は橋を渡ることができず地獄に落ちるのである。
3部ではシパ・バルドゥが説かれる。バルドウの輪廻で解脱できず下へ下へ落ちてきた魂が、最後にくるのがこのバルドゥである。ここでは死者が体を求めて動物や阿修羅に生まれ変わろうとするのを止めるための呪文が授けられる。最後に一連のバルドゥの恐怖と難関からの脱出を祈願するお経が唱えられる。
バルドウの意味
意地悪くここまで”バルドゥ”の意味について書かないできたが、それは前の記事で解説している。ここで繰り返すとバルドゥは中有といって生と死の中間状態をさし、輪廻するまでの49日間続く。「チベット死者の書」の原典は音訳すると”バルドゥ・トェ・ドル”(またはバルドゥ・ソドル)といって、”ドル”とは解脱のことである。
同様に14日間のチョエニ・バルドウで現出する多数の神群についても前に書いていて、重複するのでそちらを参照願いたい。すなわち最初の7日間は慈悲深く優しい顔の神々が、後の7日間は凶暴な血を喰らう神々が実践者の眼の前に現れるのである。