概要
岩波文庫版『正法眼蔵』は巻末目録によると”仏教”欄に並ぶ。誰でもよく目にする題名だが、いったいどんな本なのだろう。一〜四巻まである。ずいぶん長そうだ。作者は道元と書いてある。いったい誰だろう。日本人だろうか。何となく難しそうだ、何しろ題名からして疲れる。
というわけで普通の人はまずこの本を読もうとは考えないだろうと私は思いここに紹介レビューすることにした。各巻およそ450ページ超えの大ボリュームで、注付きとはいえ古文・漢文の嗜みが少しはないと絶対に完読できない。たとえ読めても頭に入らない。難しすぎて集中力が続かない。さらに長い補注は中国の禅の語録が主なので、補注の補注はないのそこまで読んではいられない。
それでも本文は大きな活字で読みやすくなっている。私は何日もかけて一応すべて目を通した。この本は日本の曹洞宗の高祖が当時の中国大陸の宋国から帰ってきて我らのために書き記した、有難い教えである。すなわち家の入っているお寺が”曹洞宗”となっていれば、他ならぬこの人の書いたこの本こそが、その真髄なのである。
内容
内容は一言で言えばほぼ中国の禅語録の上書きである。したがってこの本を読むのなら手っ取り早いところで『碧巌録』を読むのがよいのだが、家に来る和尚さんや葬儀で唱えられるお経が何を意味しているか、また曹洞宗の教えとは何を基としているかを知るには、『正法眼蔵』を読まねばならず、『清規』にしろ『用心集』にしろ『普観座禅儀』にしろ『随聞記』にしろ、この本にすべてが要約されているから、曹洞宗を理解したければこれだけで足りると思う。
ちょうど聖徳太子が『法華義疏』を書いたような感じで禅語録がなぞられていると思ってもらいたい。
記事リンク⇨https://saitoutakayuki.com/tetsugaku/hokke-gisyo/
翻訳
しかし皮肉なことに13世紀日本という時代柄、道元の気づいていないことがある。そこに私が気づくから私が優れていると言いたいのではない。道元は私の知らない多くを知っているし、私も道元の知らないことを知っているだけのことだ。それは各自が如来の教えによって教えられるものだから。
日本の仏教は中国から輸入されたため漢文で書かれている。これは中国人またはインド人が梵語を翻訳したのである。その漢文が日本で使われるともはや中国語ではない。発音も読みも変わる。翻訳不能と言われる真言、陀羅尼すらもう違う。陀羅尼は梵語の中国語の音写であるから、ひらがな読みをすればもう梵語通りにはならない。
さらに日本と中国では文明の進み具合、歴史も比べ物にならない。日本は言葉を持っていても文字すら持たなかった。しかし中国には紀元前何千年も前から優れた知識があった。仏教がインドから入ってきた時には、すでに中国には老子・荘子道家の教えがあった。玄妙極まりない『易経』もあった。孔子も出ていた。
梵語が漢字に翻訳される時に翻訳者が使用したのは道家、儒家の教えに使われる用語であった!
宝鏡三昧
道元は『正法眼蔵』で老子荘子孔子を貶し、道家儒家をそしっている。それが悪いというのではないが、”仏道”という言葉を使いながら、実は道家の言葉を使い道家の教えに預かっているということに気づいていない。たとえば”仏教”はその本来の意味で書くと”道教”なのである。
その証拠に曹洞宗の祖である洞山の作『宝鏡三昧』は同じく祖石頭の『参同契』と等しく日常読誦される聖典である。両者は中国人である。中でも『宝鏡三昧』は超難解な文芸作品であり、現代訳をちょっと読んで15分で理解できるような代物ではない。
そこには儒教の教えは無論のこと道家や易経の用語がふんだんに現れるから、それらについて無知だと絶対にこの作品を理解することはできない。だから道元にしろ瑩山にしろ、分かってこれらを読誦していたものとは考え難いのである。『正法眼蔵』は禅語録の上書きであり、それを分析するものではない。従って易経については無論のこと、老荘思想についても無知だから一言の言及もないのである。
まとめ
まとめとして何が私は言いたかったのかというと、日常何気なくお唱えしているお経や念仏、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」の一言ですら、意味のないものではなく、近くに建っている見慣れたお寺ですら、意味なく建っているわけではない。禅語で言えば「庭前の柏樹子」であるが、このために達磨大使はインドから西来したのである。