ある日、校庭に現れた二人組
「永遠の生命」――その言葉を私がはじめて耳にしたのは、小学校の1年生か2年生の頃だったと思う。昭和のあの時代、町にふいに現れる外国人の二人組。今も昔も変わらないのだろうが、白人の若い男性たちは、どこか現実離れした魅力をまとっていた。
校庭にふらっとやって来た彼らは、子どもたちに小さな折りたたみ式の絵本を手渡し、キリスト教の話を語ってくれた。イエスの教え、苦しみ、そして最後の審判――。内容はよく理解できなかったけれど、真剣に語る彼らの姿がまるで映画のワンシーンのようで、ただただ圧倒された。
ただの思い出で終わらなかった
そのパンフレットの挿絵は今でも記憶に残っている。意味はわからなくても、そこには「凄さ」があった。彼らが住んでいたのは、学校のそばの普通の一軒家を青ペンキで塗り、屋根の上に十字架を立てた、いわば“即席教会”だった。私たち子どもは何度か遊びに行き、聖書のお話を聞いた。
けれど、次第に足が遠のいた。一度、一人でその家を覗いたときには誰もいなかった。そのとき感じた寂しさや薄暗い空気が、子ども心に何かを知らせたのかもしれない。
今ではその家もなくなり、跡地には無個性なハウスメーカーの家が建っている。だが、あの二人の宣教師の姿は、どこかで心の奥に爪痕のように残っている。
10代の“解脱ブーム”
高校時代には今度は仏教にのめり込んだ。中村元訳の『ブッダのことば』を読み漁り、解脱とは何か、自分なりに考えた。けれども読めば読むほど、自分の中にある“死”への思いが強くなっていく気がして、そっと本を閉じた。
結局、私の中の“宗教”とは、この二つに限られている。ひとつはブッダの「解脱」、もうひとつはイエスの「永遠の生命」。どちらも根底には“救い”があり、共通するのは「死からの解放」というテーマだ。
「解脱」と「永遠の生命」
ブッダの教えは冷徹なまでに論理的で、思念が物質世界の「名称と形態」から自由になる道を説く。一方、キリスト教は、神の子を信じることで救われるという信仰の物語だ。
どちらが難しいか――答えは簡単ではない。なぜなら、どちらも目指すゴールは同じ、「死の超越」であるからだ。方法は違えど、道はどこまでも険しい。
“永遠の生命”とは何か
「永遠の生命」という言葉を分解してみよう。”永遠”とは? ”生命”とは? ――小学生の私に理解できるはずもない。けれど、それでも心に何かを残したという事実がある。
生命を知るには死を、永遠を知るには無常を知らねばならない。死も無常も、小さな子どもには早すぎる。しかしあのときの経験は、種のように私の中に蒔かれていたのかもしれない。
幻としての救い
ウィリアム・ブレイクは「永遠の生命」を“想像力”と呼び、チベット密教では“悟り”は心の中にあるとされている。どちらも、物質ではない世界にこそ本質があると語っている。
つまり――「永遠の生命」は、この物質世界にはない。救いをこの世界に求めても、それは幻を追いかけるようなものだ。
では、物質世界とは何か?
物質も非物質も――その境界が消えるとき、
まるで夢と現実が溶け合うように、
あなたの“望むもの”が現れるのかもしれない。
【ブッダのことば】「スッタニパータ」(中村元訳)レビュー〜原始仏典から読む釈迦の教え
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