「ヨガ」とgoogleに打ち込むと近隣の施設やヨガマット等商品の検索が出る。「ヨーガ」と打ち込むとよりいっそう本来の意味に近い”瞑想”といったキーワードが出る。
今回の記事はカタカナ日本語で意味するところの、エクササイズ的な、ダイエットや体操もしくはリラクゼーションを目的としたものでないことをまず断っておこう。
マハームドラー
チベット密教において「ヨーガ」の究極は”マハームドラー”(大印契)と呼ばれる修行の完成した境地で、これについて論じるとなると神経脈管とかチャクラなど、専門的学術的な話になってくる。すなわちヨーガ修行者は”マハームドラー”において大宇宙神シヴァと合一する。
この簡単な概要を聞いただけで一般の人は辟易してしまう。何かこう超能力か仙人の神通力みたいな印象を受けてしまう。以前の記事で仏教の創始者であるゴータマ(以下尊師)が説いたニルヴァーナ状態・解脱が、チベット密教によって身近なものとなると書いた。
反対にチベット密教は瞑想の完成された境地を、独自の用語や入り組んだ教義によってすごく大げさなものとして表現している。つまり”マハームドラー”とは尊師の言葉を借りれば「怠ることなく思念を凝らす」以外の何物でもない。
○参考→【チベットの死者の書】欲求を解放することによる自ずからの解脱とは〜ちくま学芸文庫版レビュー(2018年6月最新)
【buddhism】「仏教」の生んだ誤解と原初の主要な教義についての論考〜『サンユッタ・ニカーヤ』より(1)
瞑想への道
「怠ることなく思念を凝らす者は、最高の楽しみを得る」とは原始仏典の教えである。さてこの状態が「瞑想」なのであるが、瞑想の段階が高まり最高の地点においてチベット密教の”マハームドラー”になるのだ、と解釈できる。
悪魔が登場する原始仏典でも、修行僧を邪魔する目的は”瞑想を止めさせる”ことなのである。瞑想が中断すれば思念は再び種々の雑多な事物に向かってしまい、”マハームドラー”への道は失われる。「成し難い事」(亀)にはこのように書いてある。
「亀が手足を甲羅の中に引っ込めるように、自己の粗雑な思考を収めとり、、、」しかり、瞑想とは思念を自己の内面に向かわせることであり、絶えず外部外部へ向かおうとする心を制御することなのである。
自分自身に
そのために必要なのは自己自身の内部に豊富な富を持っていること、および外部に対し何らの価値も認めないことである。それでも何かが感覚に現れる。鳥の鳴き声、風の音、人々の話し声。昼ならば太陽の光が、夜ならば暗闇が。
この状態が瞑想と呼ばれるのならば世間的に忙しい人は携帯の電源を切っておく必要があり、来客はなるべく断る必要があるだろう。世間のことで忙しければ、いったいどうやって自己の奥に目を向けられるだろうか。
ヨーガの姿勢
チベットなどの修行者の写真は身近に見ることができるが、言うなれば座ってじっと考えている姿勢をとることにより、身体的に”マハームドラー”に近いと思っているのかもしれない。真に修行が完成しているならば、森の中だろうと、病院の待合室だろうと瞑想は可能であろう。
あのような姿勢を保ち続けている限りは飲み食いも性交もできないだろうから、有利な姿勢と言えばそう言える。若者は一般的にじっとしていられないので、多分瞑想なんてできないだろうし、大人だってそれなりに教義を自己の内に身に付けてないと瞑想そのものが出来ないだろう。
●おすすめ→【チベットの死者の書】ちくま学芸文庫版〜詳細考察