『海底二万里』ジュール・ヴェルヌ再読|マンディアルグ幻想文学との接点

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『海底二万里』ジュール・ヴェルヌ再読|海底の幻想とマンディアルグ作品の深層にひそむ影

ポムレー路地とナントの記憶

ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』というタイトルは、誰しも一度は耳にしたことがあるだろう。SFにさほど関心のなかった私でさえ、映画化やディズニーランドのアトラクションなどでその名を知っていたくらいだ。

そして、この作品と奇妙な共鳴を見せるのが、マンディアルグの短編「ポムレー路地」(Le passage Pommeraye)である。舞台は、ヴェルヌの出身地でもあるフランス・ナント市。彼の生地が、そのまま幻想文学の発火点となっている。

おそらく少年時代のマンディアルグは、エドゥアール・リューやアルフォンス・ド・ヌヴィルといった挿絵画家の手になる『海底二万里』を、胸をときめかせて読んでいたのではないか。その想像が、この「路地」に奥行きを与える。

ふと私は、カールした金髪と大きな瞳の天使のような子供の顔を思い浮かべる。乳母のような老女の傍らで、細い足をぶらつかせ笑うマンディアルグ少年──あの悪魔的とも評される冷徹な表情の作家にも、そんな柔らかな時代が確かにあったのだ。

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ノーチラス号と幻想の水族館

『海底二万里』の魅力は、単なるSFや冒険物語にとどまらない。物語に登場するノーチラス号とニモ船長は、海底都市アトランティスの廃墟に降り立ち、極地を目指し、巨大なタコと死闘を繰り広げる──その壮大なビジョンは、まるで幻想水族館のようだ。

この「水中の幻視」は、マンディアルグの他の作品、たとえば「考古学者」や「ヴォキャブラリー」といった短編に通じるイメージでもある。彼のエロティシズムやグロテスクな幻想の源泉に、ヴェルヌ的な想像力が根を下ろしていた可能性は否定できない。

創元SF文庫版で約540ページという厚みながら、読み出すと止まらない。船が怪物(と思しき存在)を追跡して撃沈され、主人公アナロックス教授らが潜水艦ノーチラス号の乗組員となる展開は、古典とは思えないスリルに満ちている。

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ニモ船長の孤独と「海底の城」

ニモ船長の人物像もまた興味深い。海底に自らの王国を築き、地上を否定しながら孤高を保つ姿は、マンディアルグの『城の中のイギリス人』に登場するモンキュを思い出させる。もっとも、ノーチラス号には女性の気配が皆無であるため、その比喩はある種の寂しさを伴うが。

冒険譚としての面白さは折り紙付きだ。海底トンネルを抜け、南極に挑み、アトランティスに到達する旅は、ヴェルヌならではの博識と想像力が織りなす一大叙事詩。日本版には独自の挿絵もついており、読み物としてだけでなく視覚的にも楽しめる。

さらに本作には、文学的な引用も見られる。極地探検ではエドガー・アラン・ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの物語』が、アトランティス探訪ではプラトンの『ティマイオス』がさりげなく引かれ、読書好きの心をくすぐる。

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おわりに

『海底二万里』は、単なるジュブナイルや冒険譚ではなく、後世の幻想作家──とりわけマンディアルグのような作家たちにとって、感覚と思考の深層を育てた「原風景」だったのかもしれない。

文学とSF、幻想と科学、少年と作家のあいだを泳ぎ渡るノーチラス号は、読者それぞれの心の奥底に、今もひっそりと潜航している。

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