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【マンディアルグ】長編小説「すべては消えゆく」〜20世紀末賢者の預言〜

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マンディアルグ(1909−1991)の亡くなる4年前発表、最後の長編小説である「すべては消えゆく」は、原題”Tout Disparaitra"であり、正確には「すべては消えるであろう」の未来形である。白水ブックスから出ている安価な邦訳だと現在進行形になってしまっている。

現在進行形、未来形、過去形という文法の相違はプラトン哲学では重要な意味を持つので、本来未来形であるはずの原題を安易に進行形にしたのは軽率ではなかろうか。

歴史の終わり

マンディアルグ自身自分の本に簡単な解説を付けることが後年多くなったようなのだが(これは若いころのミスティフィカシオン、デペイズマン手法とは正反対の傾向であるが)、邦訳白水ブックスのあとがきでは「11世紀のトレドの短剣を用い、流血によって物語に終局をもたらすのもまた、永遠に女性的なものの演劇的化身ではないだろうか?」となっている。

ここでは「物語の終わり」と訳された原文は「歴史の終わり」(La Fin de l'hstoire)であり、「化身」の原文は「受肉」(incarnation)である。ここにも同じように誤解が生じてしまっている。言葉は元来不可解なものだがフランス語しかもマンディアルグのを読んでいると、古代エジプトの神聖文字並みに難しい。

日本人が日本語によって思考するように、フランス人はこのような繊細複雑な言語によって思考するとは、驚くべきことではないだろうか。

パリに生まれた生粋のパリジャンであるマンディアルグ氏のこの本を、分厚い辞書と文法書をめくりながら筆者は20代の頃フランス語原文で読んだ。理解できていたかどうかはともかく、それらの不可解な文字群は精神に火で熱せられた焼鏝のように食い込んだ。

最近ふと思い出して邦訳を読むことができ、ここにレビューする次第となった。なのでこのレビューは数十年前に読んだ原文の記憶と、初めて最近読んだ邦訳が混合された内容となっている。

あらすじ:第1部

このロマンス(物語)というよりレシ(話)の筋は、ユーゴー・アルノルドなる男性主人公が現実のパリの街をさまよいながら、ミリアムという名の婦人にメトロで出会う。転売目的で見に行く予定だった値打物のドレスを忘れ、電車の中で化粧をするミリアムの魅力の虜となり彼女と同じ駅に降りてしまう。

しばらく地下鉄ホームで問答したあと地上の公園で語らい、次いでサン・ジェルマン・デ・プレ付近の古い教会に立ち寄る。話がまとまり2人はサラ・サンドという女主人が仕切っている閨房に出向き、そこで交接することにする。

その閨房は原文"Foutoire"でアポリネールの造語だ。仏語"Foutre"とは英語で言う"Fuck"にあたり、直訳すれば「オメコ部屋」である。そこで途中まではいい雰囲気の恋人同士といった具合に乳繰り合っていたが、突然サラ・サンドから電話がかかってきて、ミリアムは恐ろしい女に変身する。

化粧直しをして別人のようになったミリアムの10本の指に、XーMENのウルヴァリンみたいな5〜6センチはあろう刃物状の爪が取り付けられていた。女はユーゴーに跨り、アナルを舐めさせながら恐るべき爪で彼の全身を傷つけた。

挙句に身体や顔に唾を吐きかけ、魂を侮辱した後閨房(Foutoire)から身ぐるみ剥ぎ取って追い出した。

第2部〜セーヌ川

小説の第2部では持ち物一切を無くしたユーゴーが浮浪者然とした態でセーヌ川沿いを歩いている。そこでユーゴーはセーヌの流れに逆らって全裸で泳いでいる若い女の尻を見る。女は川から上がってきてユーゴーと問答えする。

この女は先ほど別れたミリアムそっくりな若い美女なのだが、名前をメリエムといった。"メリエム"はユダヤ名"ミリアム"のアラブ形である。これは何を意味するか。すなわちミリアムは創世記のイヴ、メリエムはニューヨーク・シティーにある自由の女神である。

つまり前者は大地の生けるものたちの母、後者は淫売である。男はどちらかの女に支配されて生き、どちらかの子孫を残す。歴史とは淫売に操作された男たちの記録であり、伝説なのだ。

最後にメリエムはトレドの短剣を用いて心臓の上に円を描き、その中心に突き刺して自害する。この辺りは三島由紀夫ぽい描写である。三島は刃物を使った自殺を書かせたら第1級であるから。

まとめ

このように筋としてはさほど変わっておらず面白いとも言えない。だがマンディアルグのこの本がヨハネ黙示録のような啓示の書だったとしたらどうだろうか。「すべては消えるだろう」というタイトルが表すように、人類の歴史の終わりを予告する本だとしたら。

一切が生成するこの現実世界は絶えず変化し、消滅を約されている。私たちの住むこの近代社会と言えど、いつかは消えてなくなり全くの痕跡すら失われる。それは確実である。問題はそれがいつ、どのようにやってくるのか、という点だ。

基本的に人間は35年先までしか考えない生き物である。1万年先のことなど知ったことではないからだ。せいぜい35年先、自分が70歳になるまでのことを心配して、最後はいい葬式でお経をあげてもらえさえすればいいのだ。

しかし「すべてが消える」時、それが起こるのならばそれは「今」起きるのである。1万年先だったとしても1万年先の「今」、それは起きる。そして「今」は今私たちがいる今と完全に同じなのである。

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