作文「雪だるま」と先生のぬくもり──昭和の記憶から

エッセー

母の死そして、婆ちゃん・爺ちゃんと

私の母は二歳のとき事故であっという間に亡くなってしまった。だから賢明な努力をして母のことを思い出す。それからは婆ちゃんが母親代わりになり、爺ちゃんと三人で四畳半で寝起きする生活がスタートした。

なんで今日から婆ちゃんと寝るのか、疑問にすら思わずに。でも時々子供ながら何かを思い出したように泣くのだった。そんなとき婆ちゃんはトランプで遊んでくれたり、かくれんぼであやしたりしたものだ。

先生との出会い

小学一年生は私の心がまだ純真だった最後の時期である。Y先生は私の初めての先生だった。近所に住む、私と同じ一人息子を持った、夫を亡くした所謂未亡人。

先生の息子さんとは後に会う機会はあったが、そのころは同居してなかったと思う。大学生だったのかもしれない。先生はきっと私の母の死を、自分の境涯と合わせ仰せて、痛ましく感じたことであろう。

記憶の奥底から浮かび上がってきた物

人が死ぬとその人の思い出がずっと忘れていたことまで思い出されるのはなんでだろう?5年前婆ちゃんが亡くなってから、幼い頃の記憶が、引っこ抜かれた根にくっ付いて一緒に掘り起こされて出てくる地中の虫のように、たくさん現れ出した。

私はすでに50を過ぎたおっさんである。孫を自慢する祖父母も、自慢される純真な子供ももういない。しかし実家の居間のガラス棚には、私が子供の頃獲得したつまらないトロフィーやらが、いまだに金色に光っている。ふとそこに小さなバッジの箱が置いてあるのを見つけた。

「小さな目」の記念バッジ

大事そうに、もらった時のまんま、プラスチックの箱にまるで宝石のように(と私は思った)、その記念バッジは、やや黄ばんだ油紙に包まれて、同じく黄ばんではいるがまだボロボロになってないスポンジの上に乗って、仕舞われていた。

朝日新聞の詩のコーナーに入賞した子供に贈られるバッジだった。”小さな目”朝日新聞社”賞”SUS”の文字が読める。レトロ感のある絵とカラーの表面と、安全ピンぽい針が付いた不思議な感じの裏面。バッジは時代によりデザインはやや異なるものの、中古品で売りに出されたりしている。

作文「雪だるま」

五十音を習ったばかりの私は短い作文を書き、先生は「小さな目」に応募し、「雪だるま」と題されて新聞に載った。冬の出来事だつた。

そんな賞を取ろうなんて考えもしなかった。作文の上手い下手もわからない。先生が直してくれて応募できたんだと思う。私は何もしておらず、先生が賞品を取ってくれたようなものだ。

以下は記憶に残るその時の作文——-

「雪だるま」

雪だるまをつくつた

ダンガードエースという名前をつけた

少し溶けて崩れていても

ダンガードは

威張って立っていた

贔屓なくらいの特別扱い

Y先生に担任してもらった小学校一年間、私はいつも贔屓にされていることを感じていた。先生は私に「特別」という概念を与えた。今なら問題になるくらいであろうの特別扱いを、私は学級内で受けていた。

担任を外れて小学校二年の時校庭で会ったとき、「僕、弟ができるんだって」と言ったことがある。先生はなんにも答えず私を大胆に抱きしめた。ムニュッ、というおっぱいの感触をはっきり覚えているくらい強く。結局弟はできず仕舞いだったが。

先生が獲ってくれたバッジ

中学の頃にたしか一度道端で会ったのが最後か。昼間誰もいない先生の家のひっそりとした静けさ、中に覗けるお仏壇、草の生えた庭、学校の帰りに寄り道してよく覚えている。先生のお家はもうない。

婆ちゃんも先生も多分とうに死んで、「小さな目」のエピソードを知る者は私以外いなくなった。昭和のレトロな模様の箱を開け、まだ錆びていないステンレスのバッジを手にとり、私は今頃Y先生の気持ちが分かった。

ずっと思い出になるような何かをあげたい、そう思って賞品を取ってくれたのだろう。

すごく大切な物

40数年ぶりに「小さな目」の記念バッジを眺めながら、やっと先生の気持ちがわかった。

新聞記事の切り抜きは昔まで額に飾られていた。ただバッジだけは、まるで貴重品のように、もらった時のままガラスの飾り棚に仕舞われていた。

何もわからない子供は初めて”賞”をもらい、”新聞”に作文が載った。すごく大切な物を授かったような気がした。

Y先生、その通りでした。有難うございます。

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