「禁欲」「節制」について、難しくないエッセー風の論考。
禁欲
「禁欲」とは己を欺き、己の欲望を捻じ曲げ、押し隠そうとすることである。例えば友達から詰られ、馬鹿にされるとする。君は腹が立つとする。ならば相手に報復すべきである、しかもこそこそせずに堂々と。それによって君は相手に対等であるか、あるいはそれ以上の存在であることを証明できるのである。
でも相手が自分より強く力がある場合、恐怖が君をして「禁欲」に走らせる。本当は殴りたいのだが怖くて卑屈になり、相手に負ける。君は単なる臆病者に過ぎないのに、怒りを抑えることにより自分は立派な人間なのだと言い聞かせる。
性欲
女とやりたいとする。しかし「禁欲」がそれを禁じる。言うまでもなく女にモテるのは強い男である。だが君は臆病者なのでここでも自分を「禁欲」によって正当化せざるを得ない。自分の欲望に対して、誇りの面でも、性欲の面でも、戦いの面でも嘘をつく。
こうして「禁欲」し続けることによって、君は自分を欺き続けるゆえに、永遠に君は純粋な君自身になれない。なぜなら自分を磨くとは、自分の欲望に忠実に生き、自分の欲望を満足させるために努力することであって、自分の欲望を抑えることではないからである。
節制
「節制」とは自分の欲望に適正な量を設定することである。例えば美味い飯が食いたい、その量は適度を越えると反対に快感ではなく嫌悪感をもたらす。つまり吐き気、体調不良、肥満による病気、着れる服がない、女性にモテず性欲を満たせない、など。
つまり節制は、とことん自分の欲望に従って生き、その得られた経験から生まれる。車が欲しい、いい酒が飲みたい、いい服が着たい、いい女と遊びたい、お金が欲しい、etc.よろしい、その欲望に忠実に一生懸命生きるが良い。
もしいつかそれらのものを追いかけることが、心の底から馬鹿馬鹿しいと思える日が来るかもしれない。その時こそ「禁欲」や「節制」の哲学を学べば良い。ただし、己に嘘をついてはいけない。己を欺くことこそ偽善者である。偽善者は正直な悪人に劣る。
自慰
だから、エロ動画が観たければ見るが良い、マスターベーションするが良い。いつかそれらの女どもが汚らしいと本当に思える日まで、絶対に禁欲してはならない。
またラーメン大盛りが食いたいなら食えば良い。いつか食い過ぎが快楽ではなく苦痛だと本当に知る日まで食うが良い。
侮辱されたなら殴るが良い。それによって自分も自分に対して暴力を振るったのだということを本当に知る日まで。口によっても体によっても、暴力は可能であるが、怒りは人間の当然の感情であるから、怒りが自分にとっていかなる悪を成すか知る日が来るまで、怒りを抑えてはならない。
Those who restrain desire, do so because theirs are weak enough to be restrained,
W.Blake "Marriage of Heaven and Hell"