「死にたい」と感じたあなたへ|命の意味を考えるための静かな相談記事

エッセー

「死にたい」と感じた時に読んでほしい──命のための私的相談記事

いまこの記事を読んでいるあなたが、「死にたい」と感じているとしたら、それは“正直な心の声”かもしれません。

日本は世界有数の自殺大国。ネットで「死にたい」と検索すると、支援窓口やSNSのハッシュタグが無数に表示されます。でも、ほんとうにあなたが今すぐに欲しいのは、定型文ではなく、少しでも心の芯に触れる「ことば」ではないでしょうか。

今回は、筆者自身が“命の相談員”になったつもりで、完全無償で、真面目に、心から書いてみます。

どうしても「死にたい」と感じてしまう人へ

もう何もかも終わらせたい。何も期待していない。そう思っているあなたへ。

人には誰にも言えない絶望があると思います。そして、真面目な人ほど、言葉を飲み込んでしまいます。

この世界はときにあまりに冷たく、残酷です。でも──それでも筆者は思います。「死ぬこと」よりも、「今、あなたが感じている苦しみを言葉にできた」その事実のほうが、尊く大切です。

あなたはまだ、自分の命に“向き合おう”としている。ならば、いまは「死にたい」と思っても構いません。それは恥ではなく、生きようとする力の裏返しなのです。

もう少し生きてみたい、という気持ちがあるなら

この世界は、学校のようなものかもしれません。入学(=誕生)は自分の意志ではなく、卒業(=死)もまた然り。

小学校は6年、中学は3年。途中で逃げ出したくなることもありますが、それでも「今ここにいる理由」があるのだと、少しだけ考えてみてほしい。

あなたの命は、宇宙の摂理の中にあって、偶然ではありません。太陽、地球、星々、食物、親、そのまた親──そうして繋がって、あなたという存在は生まれました。

だから、命を終える“その日”まで、少しだけでも、生きてみてください。

個人的な話ですが

筆者はもう50歳近くになりますが、高校生の頃からずっと「死にたい」と思ってきました。20代は特にひどかった。でも、不思議とまだ生きています。

生きていれば、時間は静かに過ぎて、少しずつですが、心の風景も変わっていきます。こめかみに白髪を見つけて、「俺も年を取った」と笑える日も来ます。

だから、今は「死にたい」と思っていても大丈夫です。ただ、「その気持ちを卒業する日が、きっと来る」と信じて、今日をやり過ごしてみてください。

「死にたい」気持ちと向き合うために

仏陀は「この世は苦である」と説きました。あなたが今感じている暗さ、虚しさ、それはある意味で真理に近い感受性の証かもしれません。

本当に苦しいときは、他人の言葉すら鬱陶しく感じるものです。でも、自分の心を納める方法は、最後は自分にしか見つけられない。

苦しいときは、自分の心が“定まらない”状態にあるとき。あっちへ行き、こっちへ行き、どこにも居場所が見つからない。そんなふうに、心が乱れている状態こそが「死にたい」という感情の正体かもしれません。

決して弱さではありません。ただ、自分自身と向き合う力を持っているからこそ、苦しいのです。

命の相談ということ

誰にも言えない話を、インターネットという海のなかで呟くしかない人がいます。

そのこと自体、悪くないと思います。でも、どうか覚えていてください。「あなたの命は、あなたひとりのものではない」ということ。

生まれる時、私たちは一人ではなかった。死ぬときも、本当は一人ではないのです。

最後に

心が折れそうなあなたへ。悪霊でも、神でも、何でもいい。誰でもいいから、助けてくれと祈ってみてください。それは立派な“生”の行為です。

「死にたい」という言葉に寄り添うことは、とてもむずかしい。でも、それでも伝えたい。

怖がらなくていい。あなたの命は、まだ終わっていません。

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