哲学

デカルト【哲学原理】第一部「人間認識の諸原理について」の考察

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論点

ルネ・デカルトの「哲学原理」の第1部「人間認識の諸原理について」 から導き出される疑問や考察を述べる。

そこにおいては人は思惟するもので理性を備える以上、非物体的なものであることが必然的に明証されるのである。

もし思惟なるものが非物体的であるならば、必然的にそれは存在し不死だということになる。

不死であり存在する以上は神もまた必然的に存在する。なぜならば思惟する実体は自分から不死であり存在しているのではないからである。

それは存在させられ維持されている。自己よりもより完全で不滅なるものによって。

人体

以上の原理はデカルトの哲学の根本をなす前提となっている。しかし私には以下のような不安があるのである。

つまり現代のように脳科学が非常に発達している時代においては、人は物体以外の何者でもなく、体の消滅とともに心も無に帰するのだと主張する人もいるだろうから。

心とか魂、精神とかいったものらも所詮人間の脳内に形成される現象でしかない、と。

手や足が物体でないという人はまずいないにせよ。それらは切断可能で燃やすこともできる。すなわち人体の生命が維持できなくなればいずれ無くなる。

だんだんと上へ登っていき性器や腹や胸、これらも物体である。このことには誰も依存はあるまい。XMENのようなミュータントではないのだから。

ここまで誰もデカルトに反対はしないであろう。ではもっと登って行くとどうなるか。

すなわち人間の頭部を見てみる。顎、物体。舌、物体。耳、物体。眼、物体。顔も全部物体である。

髪の毛も物体である。だから人は禿げる。眉毛も剃ることができる。鼻も削ぐことが可能。頭蓋骨も割れるし粉々に砕くことができる。

じゃあ、人の心はどこにあるのか?もはや脳しかない。だがこれも物体である。

脳には様々な情報が蓄積され、身体のあらゆる感覚が集中している。また体を律して危険なものを避けさせたり、好ましいものを摂取しようと寄って行かせるなどの指令を出す。

これら脳の中で形成される感覚や好き嫌いや、記憶や知識こそが思惟であり、考えることそのものではないのか?

なぜデカルトだと「考える=精神=非物体」になるのか?今私がこうやって考えていることが、なぜ非物体的存在のなせる業だという風に結論されなければならないのか。

単なる脳の働きによる思いなしかもしれないではないか。こんなことを言うとデカルトに注意されるであろうが、あえて私は反対の立場で物を言っているのである。

現世的知識

では次に思惟の働き、性質について見ていこうと思う。なぜなら同じ心の働きと呼ばれる物であっても色々な種類があるからだ。

寒い、暑い。これは思惟ではなく感覚である。痛い、気持ちいい。同様。全般に感覚は思惟ということはなさそうだ。

つまり身体の感覚は人体の消滅とともに消える。次、記憶とか知識はどうか。

記憶は例えば子供の頃初めて缶蹴りをして遊んだ時のこととか、若い母親の思い出とか。

そして知識というか、例えばこういうものだ。仙台までの道路の道順、ETCのくぐり方、iphoneの使い方。行きつけのカフェの場所、友達の名前など。

つまりこの世に生まれてから経験や感覚を通じて蓄積した知識、である。

例えば昼飯にインスタント・ラーメンを煮て私が食べるとする。食べ終わってから丼を洗い、食器棚にしまうとき。

丼を持つ片手を骨が支え、筋が一方は伸び一方は縮む。私は丼が片手で持つには相対的に重い、と感覚する。

その丼を食器棚のどこに仕舞えば奥さんや母親に叱られないか、脳が知っている。こういう知識は多分死ねば忘れるか消えて無くなるであろうことは疑いない。

3角形

しかし3角形についてはどうか。なるほど筆者は三つの角の和が180度つまり2直角になるということを、小学校低学年で学んだ。

だが3角形の3つの角の和が180度であるということは、私がそれを学ぶ前からそうだったのであり、それがいつからそのようになったかもわからない以前からそうなのである。

そしてこの真理は永遠に変わることがなく、絶対的でこの上なく明快、この上なく単純なのである。

この働きがデカルトの言う思惟である。つまり「絶対的」「永遠」「真理」なるもののこの上なく明快・単純な認識。

絶対的・永遠・真理などの実体が物体的な何かではないことは誰でもわかると思う(笑)。「1」という実体もそうである。

これらの認識は脳の働きによる何かではないのであって、このような認識に関わる思惟こそがデカルトの言うところの理性であり、精神なのである。

存在

物質世界の中には非物体的なものは存在せず、非物質世界の中には物体的なものは存在しない。物質世界は物体として感覚されるが、非物質世界は物体としては感覚されないのである。

なぜなら、見えないものは見えないし、聞こえないものは聞こえないのだから。それら感覚されないからと言って感覚され得ないもの、つまり非物体的なるものの存在を否定する人たちは、実は自分で自分を否定しているのである。

なぜならばそのような人たちは感覚されないもの、感覚できないものが在るということを必然的に認めているのであるから。もし違うのならばかれらは全てを感覚している、というパラドックスに陥る。

非物体的実体を認識する理性は「永遠」「絶対的」「真理」などと同種の実体であるがゆえに、非物体的なるものを認識することが可能なのだ。

ゆえに理性は精神を支配し、たとえ身体が消滅しても人間の精神は不滅・永遠である。身体の死によって消滅するのは感覚と、脳内で形成された人間的心の部分だけである。

そして思惟する精神なる自己はさらに完全な存在、つまり存在の原因のようなあるものによって存在させられている。これがデカルトの言う神である。

最後に旧約聖書で主がモーゼに語った言葉。

"What is your Name?" asked Moses,  God answered "I AM who I AM".

「あなたはなんと言う神なのですか」モーゼは尋ねた、主が答えた「私は在る者である」。

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