哲学

【ブッダ 悪魔との対話】「サンユッタニカーヤⅡ」〜ふたつのエピソード

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これは前回記事からの続きである:岩波文庫「ブッダ 悪魔との対話」第1集第4篇第3章(五つの経)に、他のブッダの本には滅多にない興味深いエピソードがふたつあるので紹介しよう。

●関連(前回記事)→【サンユッタ・ニカーヤⅡ】「ブッダ 悪魔との対話」中村元訳・岩波文庫〜紹介と感想

「ゴーディカ」

ゴーディカ尊者は仙人の丘の黒曜石の岩窟で精神統一を行い、6度心の解脱に達したが6度その境地から退いた。さて7度目に解脱に達した時、尊者はいい加減修行にケリを付けるために「もはや刀を手にしたらどうだろう」と思いつめた。

そこで悪魔は尊師ゴータマ(仏陀)に近づき弟子が自殺しようとしているよと知らせた。尊師はこう答えた「思慮ある人々は実にこうする。生命を伸ばすことを期待しない。妄執を根こそぎにえぐり出してゴーディカは安らぎに帰した」。

それから仏陀は弟子たちを連れてゴーディカのところへ行った。尊者ゴーディカは肩を丸めて伏していた。そのかれの体の周りを煙のような、朦朧とした何かが浮遊していた。仏陀は弟子たちに教えた「これは悪魔がゴーディカの”識別能力”を求めているのだ。しかしかれは完全にニルヴァーナに入ったのだ。

ゴーディカは完全に消え失せた」。

飛び魚

まるで飛び魚が水面から上がるように断髪的に解脱することができるものであり、一時的にせよかの境地を垣間見ることができる。あとはそれを維持するだけである。また死ねば成仏できるというのではない。死ぬ前に修行を完成させねばならぬ。

迷いの生存を百年送ったところで何になろう。今日この日、この瞬間に解脱を実現せよ、と教えているかのような経。

「娘たち」

愛執・不快・快楽の3人の悪魔の娘が父親がふさぎ込んでいるのを見て訳を訪ねた。父親の悪魔は仏陀であるゴータマを誘うことができなくて悲しんでいた。仏陀は悪魔の領域を脱しているからだと。そこで3人の悪魔の娘は尊師の元へ誘惑に行った。

彼女らはそれぞれ100人の女人の姿に変身してゴータマを誘惑した:すなわち総勢300人の少女・乙女・成人・中年・熟女とあらゆるタイプの女の姿で。しかし尊師は”生存の素因の破壊”のうちにあって解脱していたから気にもとめられなかった。

3人の悪魔の娘は父親の元へ帰り、父はこう言った「愚かな者どもよ。そなたらは蓮の茎で山を砕き、爪で岩山を掘ろうとしたのだ。歯で鉄を噛み、大きな岩石に頭を打つけ、底のない深淵に足場を探そうとしている」。

「7年」

実際300人でなくとも少女や若い女または熟女などにかしずかれたら、男ならどうやって欲望に抵抗し得よう?”生存の素因の破壊”とは何なのか、ヒントとなるエピソードをもう1つだけ。

悪魔は7年の間尊師につきまとって隙を見つけようとしていた。悪魔は言った「喩えば村または町から遠からぬところに池があり、そこに蟹がいたとしよう。多くの少年少女が町から出てきて、その池に近づいたとしよう。

近づいてからその蟹を水の中から取り出して、陸地に置いたとしよう。もしも蟹がハサミを立てたならば、少年少女は木片または石片でそのハサミを断ち割り壊すであろう。このようにして蟹はハサミを断たれ壊されて、もはや元の池に入って行くことができない。

いかなる曲がったもの・歪んだもの・ねじれたものでも、全て尊師によって断たれ、破られ、壊されて、今や隙を見つけようとしても尊師には近づくことができない」

生存の素因

心の解脱を妨げる”生存の素因”なるものが、もしこの蟹の喩えのように物質的に破壊できるものならば、火のメスだろうが鋼鉄のハンマーだろうがどうぞ壊してくれと頼むのだが。ネットゲームの習慣、暴飲暴食などの悪徳は何とか抜け出せたのだが、

未だオナニーは月1〜2回やってしまうのはなぜであろう?なぜ心は身体を愛するのであるか。この骨と内臓と血とで出来た、皮一枚の下は汚穢の詰め袋に等しいこの身体を?”5つの激流と第6の激流”を渡るのは容易ではない。

●関連→【buddhism】「仏教」の生んだ誤解と原初の主要な教義についての論考〜『サンユッタ・ニカーヤ』より(1)

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