【形而上学】地獄はあるのかどうか、精神および魂の不死〜ルクレーティウスに寄せて

哲学

物質と精神のあいだで

地元の図書館から借りてきたルクレーティウスの『物の本質について』を読んでいる。著者は、精神や魂は死とともに消滅すると主張する──その一節に出くわしたとき、一度は本を閉じた。しかし、いや待てよと思い直し、読み進めているところである。

本書のレビューはいずれ別記事にて述べるとして、ここでは仏教の開祖・釈尊が語った「こだわりなき境地」を思い出したい。議論や主張に執着せず、あらゆる信念すら超えたその境地。私もまた、紀元前ローマの思想家ルクレーティウスを頭ごなしに否定することはできない──そう思い、この経過報告を書き残すことにした。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

ルクレーティウスの思想と現代の問い

『物の本質について』と訳されるこの書は、実のところ「物質について」と読むべきである。ルクレーティウスは原子の思想をエピクロスから受け継ぎ、それをあらゆる神秘の鍵と信じている。

彼の視点を頭ごなしに否定はしない。ただ私自身の思索から、いくつかの問いと答えを記しておきたい。

問いと答え

  1. 「魂は輪廻するか?」──わかりません。
  2. 「地獄はあるか?」──ある。
  3. 「魂は肉体と共に滅びるか?」──議論しません。
  4. 「精神もまた滅びるのか?」──何も申しません。

地獄とは何か

私が答えられるのはただ一つ、「地獄は存在する」ということだけである。地獄──それは二文字の日本語だが、意味は極めて深く重い。「そこにおいて、魂が永遠に苦しむ世界」──それが地獄である。

想像してみてほしい。放射線による被曝、焼失、酸による溶解、器具による拷問、生き埋め、毒ガス──さらには精神的な陵辱。これらは現実に起こり得る肉体と精神の極限の苦しみである。

通常、肉体が死ねば苦痛も終わる。だが、地獄ではそれは許されない。魂は体の死によって逃れることはできず、永遠にその責め苦のなかに置かれる。

正義と不死

ここで重要なのは、「受刑者」という存在の前提だ。罪ある者が処罰されることで受刑者は成立する。そして処罰は法によってなされ、法は正義の現れである。

この「正義」が存在し、しかもそれが時代や世代を超えて立つ永遠の真理である限り──魂は不死である。なぜなら、正義によって罪が裁かれる以上、罰を受ける存在=魂がなければならないからだ。

よって、地獄はある。魂は不死である。そして精神もまた、魂と共に存続する。ルクレーティウスよ、私はこの一点において、あなたに静かに反論する。

追記──ある噴出しそうな反論

──とはいえ、こんな反論が聞こえてきそうだ。

「正義」の意味は時代とともに変わる。国によっても変わる。文化や宗教、政体、民族の倫理観によって「正しさ」は簡単に塗り替えられる。ゆえに、そんな移ろいやすいものがどうして「永遠の真理」であろうか?

「正義」など実体のない幻想だ。それは人々が自由に足したり引いたり、歪めたりすることができる──法律の条文のように、またSNSの空気のように。

ゆえに、永遠の法もなければ、永遠の罰である「地獄」も存在しない。魂の裁きなど幻想だ。よって人々は死後の心配をする必要はない。

生きている限り、できるだけ楽しい思いをすること──それこそが人間の本望ではないか。

▶【聖書】「呪いの言葉」まとめ(1)『詩篇』『箴言』『申命記』より

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