【ヘルメス文書】ヘルメス・トリスメギストスの謎に包まれた神秘文書とは
はじめに――神と知の融合体としてのヘルメス
ヘルメス・トリスメギストスとは、ギリシャ神話のヘルメス、ローマ神話のメルクリウス、そしてエジプト神トート――この三者が同一視され融合した存在である。「三重に偉大なる者(トリスメギストス)」との異名をもち、しばしば「ヘルメス=トート神」とも称される。
この神的融合の背景には、アレクサンドロス大王の東方遠征に端を発するヘレニズム文化の成立がある。ギリシャ世界とオリエント、そしてエジプトの思想と宗教がアレクサンドリアの都市文化において交錯し、新たな知のかたちを生み出した。それが「ヘルメス文書」と呼ばれる神秘思想の書群である。
成立と伝承の謎
ヘルメス文書がいつ、誰によって書かれたのか――その詳細は現在も明らかになっていない。伝承では、かつてアレクサンドリア図書館にパピルスの巻物として保管されていたとされるが、同図書館は度重なる戦火によって焼失し、多くの資料とともにその原型も失われた。
今日我々が読むことのできるヘルメス文書は、「ヘルメス選集」として知られる諸文書をつなぎ合わせたものであり、その多くは断片的かつ象徴的な文体をもつ。筆者が邦訳で目を通したのも、この「選集」に該当するものである。神保町の古書店で偶然手に取ったのが出会いだったが、それは一種の啓示であったのかもしれない。
内容――融合された叡智の断章
ヘルメス文書の中核には、ユダヤ=キリスト教的信仰(旧約・新約)と、プラトンやアリストテレスに代表されるギリシャ哲学、さらにはエジプトの神秘的象形文字(ヒエログリフ)による知の体系が融合している。
その結果として現れる文体は、極めて抽象的かつ詩的であり、しばしば解釈困難である。まるでロートレアモン伯爵の『マルドロールの歌』にも似た、デペイズマン(異化効果)的な読後感を伴う。
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文書は「知者ヘルメスが息子タトに語りかける」という対話形式で構成される章もあり、これはプラトンの対話篇の形式に影響を受けているものと考えられる。
グノーシスとヘルメス主義――知と沈黙の境界
しばしば混同されるが、ヘルメス主義とグノーシス主義は厳密には異なる潮流である。グノーシス(gnosis)とはギリシャ語で「認識」や「直観的な知」を意味し、ヘルメス文書もまたその流れを汲む文書といえる。
しかしながら、ヘルメス文書における「知」とは、体系的な教義や理論ではない。それは、存在そのもののあるがままの姿を直観的に「知覚」するという体験そのものを指す。つまり、何か新しい情報を教えるというよりは、すでにあるものを“目覚めさせる”ような知なのである。
最後に――読む者に問いかける書
ヘルメス文書に描かれる宇宙と人間、神と魂、肉体と霊魂の問題系は、あらゆる宗教・哲学の境界を越えた普遍的なテーマに通じている。ただしそれらは、ヒエログリフ的な象徴や詩的言語によって暗号化されており、読む者の直観と霊的感受性がなければ、たちどころに意味は霧散する。
「耳ある者は聞け」。この一節に象徴されるように、ヘルメス文書はすべての人に向けられた書ではない。それを読むということ自体が、すでに一つの秘儀なのである。
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