【三島由紀夫】『金閣寺』レビュー|完全な変質者による、完全な変質者の書
再読して確信したこと
三島由紀夫の『金閣寺』を、めぐりめぐって再読した。
私にとっては三島作品の“入り口”だったが、初読のときは何がなんだか分からず、ただ文章に圧倒されたまま終わった記憶がある。
それから幾年、彼の著作をいくつも読み、資料を漁り、少しずつ三島という作家の全体像が見えてきた。今回の再読ではっきりしたことがある――
これは「完全な変質者の書」だ。
『仮面の告白』が変質者の未成熟な独白だとするならば、『金閣寺』ではその変質性が堂々と完成されている。構築され、育まれ、放火という頂点で一気に噴き出す。この狂気の書は、日本近代文学史上の異物であり、傑作である。
吃音の主人公という装置
物語の語り手は吃音者。これだけでもすでに“観念小説”の香りが濃い。
出会う友人たちもまた、内反足の皮肉屋だったり、脱走兵に弁当を届けようとして恋人共々射殺される女性(有為子)だったり、現実味から乖離した存在ばかり。
この有為子は、実体のある人物でありながら、物語を通して“幻影”のように主人公に憑きまとい続ける。愛と死が、観念として主人公の心を支配するのだ。
美への放火という思想
この小説は、ただ“金閣を燃やす”話ではない。
主人公が、いかにその美の象徴たる建築物を破壊するに至ったか――その心理の緻密な描写こそが核心だ。
彼にとって“世界”とは、神の創造した秩序ある世界ではなく、欺瞞と堕落に満ちた牢獄。
そこに燦然と輝く金閣寺の存在は、彼の内部にある劣等感と破壊衝動を絶えず刺激し続ける。
登場人物とその象徴性
主要登場人物は、吃音者の主人公、足に障害を持つ柏木、素朴な善人鶴川、そして金閣の老師(住職)。女性たちは、有為子や柏木に騙される女性たちなど数人。
人物造形は多くない。だが全員が“記号的”に配置されており、それぞれが主人公の内部の“鏡像”である。
三島由紀夫以前の日本文学は、谷崎潤一郎や泉鏡花に代表されるように、どこか“日本的幻想”の中にあった。
だが三島は、日本語を使いながらも、その文体にフランス的構造主義、ヨーロッパ的破壊の精神を注ぎ込んだ。
矛盾を抱え、両極を同時に抱きしめようとする文体。それが三島文学の魅力であり、『金閣寺』の完成された特異点でもある。
欠損と性愛
柏木の足の障害は、この物語において異常なほどの存在感を放つ。
彼は「自分の足を見た女たちは、なぜか全てを捧げたくなる」と豪語し、若い美女を振って老女で童貞を捨てたと語る。
このような倒錯は、主人公の歪んだ内面と見事に響き合い、作品に不穏な“性愛”の軸を通す。
美と傷、愛と変質、性と死。すべてが混ざり合い、腐臭すら漂う。
仏教のパロディとしての金閣寺
和尚である老師の描写は、宗教の権威と空虚さを同時に提示している。
彼は仏教的存在でありながら、仏法を真に伝える者ではない。金閣寺そのものが“聖”の象徴であり、“俗”の温床でもある。
三島の文章には、難解な仏教用語、中世建築様式の専門語、そして“読むことすら挑戦的”な漢字が多く含まれる。
しかしそれが、この作品を“ただの小説”から“精神の格闘”へと昇華させている。
日本人であることの誇り――この難解な日本語を、原文で読めるという一点にこそ宿るのではないか。
結語|赤い傑作としての『金閣寺』
マルグリット・ユルスナールは、三島の代表作をこう分けた。
-
黒い傑作『仮面の告白』
-
赤い傑作『金閣寺』
-
透明な傑作『潮騒』
この分類は的確だと思う。『金閣寺』は、最も狂い、最も燃えている作品である。
狂気、倒錯、放火、美、欠損、性愛、宗教――
すべてが混ざり合って、読者の精神に火をつける。
これこそ、三島由紀夫という“完全なる変質者”によって描かれた、完全なる変質者の物語である。
コメント