残された希望
楽園を追われたアダムとイヴは、罪を背負って荒野へと旅立つ。そこから人類の歴史が始まるが、以後人間は、地獄から自在にやってくるルシファーの軍勢に常に晒されながら生きることになる。
しかし、聖書は希望を語ってもいる。のちに生まれるキリストがその罪を贖うことで、人間は再び救いの道を得られるというのだ。ミルトンの『失楽園』でも、神の右に座す“子”――すなわちキリスト――が、人類を救うべく自ら地上に降りる決意を述べる場面が描かれている。
キリストには、救世主=メシア、創造の言葉=ロゴス、神の子などさまざまな呼び名がある。対するサタンにもまた、蛇、堕天使ルシファー、荒らす者など多くの異名がある。
堕天使たちの誓い
地獄に堕ちた天使たち――すなわち悪魔――は、神に背いた罰を受けてなお、復讐の意志を燃やす。彼らは「善をなさず、悪のみを行う」と誓い、天への憎しみと人間への妬みを胸に、人類をひとりでも多く道連れにしようと企てる。
この構図は、映画『コンスタンティン』にも通じる。天使は神の使い、悪魔はサタンの使い。双方は常に拮抗する“見えざる戦争”の状態にあり、人間界を静かに巻き込んでゆく。
智天使と炎の剣
楽園の門には、智天使ケルビムと炎をまとう回転剣が置かれ、アダムとイヴが“生命の樹”に再び近づけぬよう封じられた。
なぜなら、すでに“知識の樹の実”を食べたふたりが、“生命の樹の実”まで食してしまえば、善悪の知識を備えた不死の存在=神となってしまうからだ。
これはミルトン独自の解釈ではなく、旧約聖書そのものに記されている。つまり、善悪の認識こそが“神性”の条件という逆説的な視点である。
『失楽園』の中では、そうして神になりかけた存在が「半神(デミ・ゴッド)」と呼ばれている。
楽園へ戻るには
炎の剣を越えなければ、永遠の命にはたどり着けない。楽園の門は閉ざされており、もはや誰にでも開かれているものではない。
世界の各地・各宗教には、「罪の贖い」や「救い」の教えが古くから存在してきた。そのかたちは異なっていても、目指すところは共通している。
仮に天使も悪魔もいないとしたら、私たちはただ地球上で、習慣と常識に従って生きているだけということになる。それはあまりにも空虚で、そして皮肉なことに――それこそがサタンの狙いなのかもしれない。
関連リンク
●前回記事→ 【失楽園レビュー①】サタンの失墜と人間の運命
☦ ケルビムの剣を解除するヒントは、ブレイクの『天国と地獄の結婚』にも描かれています(プレート14参照)→ 【解読②】ブレイク『天国と地獄の結婚』
コメント