イギリスを代表する詩人・画家ウィリアム・ブレイクの作品は、神秘と幻視に満ちた“予言の書”として知られています。その難解な文章は、彼の鮮やかで独創的なイラストによって補完され、ひとつの芸術世界を成しています。
読む者は深く構えることなく、直観で受け止めるのがよいでしょう。本シリーズは『天国と地獄の結婚』を全4回にわたり、原文読解と翻訳、そして独自解釈をまじえて紹介するものです。
*前回の記事はこちら→【ブレイク詩解読】天国と地獄の結婚(3)―深淵に響く幻視
ハープの砂浜
(前回「記憶すべき寓話」の続き)
天使は粉挽き場へ戻り、私はひとり砂浜に取り残されました。恐ろしい幻は消え去り、代わりに月光の照らす穏やかな浜辺が現れます。ハープの音が聞こえ、その調べに合わせてこう歌われます――「自らの意見を一切変えようとしない者は、爬虫類を生む淀み水のようである」と。
私は再び粉挽き場へ向かい、天使と再会します。「あれほどの惨状をどうやって逃れたのか」と尋ねる天使に、私は答えます。「それらはあなたの形而上的思念が生み出したもの。あなたが去ったとたん、私は心地よい浜辺にいたのです。では、今度はあなたの永遠の運命を私に見せさせてください」
私は天使を連れて夜空へ舞い上がり、地球の影を越え、太陽へと突入。白衣をまとい、スウェーデンボルグの本を手に、惑星を超えて土星、そしてその先の虚空へ飛び込みます。
争う猿たち
そこには場所とすら呼べぬ場所がありました。再び教会に入り、祭壇の聖書を開くと、そこには深い穴。降りていくと、煉瓦造りの七つの家のひとつに猿や狒々が群れを成していました。
彼らは鎖に繋がれたまま、ニヤつきながら互いに争い、喰い合っています。強い者は弱い者の足を引きちぎり、最後には胴体までむさぼる。その直後、優しげにキスをし、再び喰らう。自らの尻尾を食う獣もいました。
悪臭に耐えかねて私たちは粉挽き場に戻り、私の持っていた本はスウェーデンボルグではなく、アリストテレスの『分析論』であることに気づきます。天使は言いました。「お前の妄想が私を苦しめたのだ」
私は答えます。「互いに苦しめ合ってきた。ただ、分析だけが目的のあなたとの対話は、もはや時間の無駄でしょう」
プレート21〜22:スウェーデンボルグ
スウェーデンボルグは、天使と対話するが悪魔とは交わらない。彼の著作には新しさがなく、欺瞞的で高慢な意識によって可能性を閉ざしている。パラケルススやベーメ、あるいはダンテやシェイクスピアの方が遥かに無限の広がりを持っている。
太陽の光の中で蝋燭を灯すように、彼の知性は光の中で微かに燃えているだけに過ぎない。
プレート22〜24:地獄の聖書
あらゆる美徳は、十戒を破らなければ成立しない。キリストは美徳の体現者であったが、それは規則ではなく衝動によって成された行為だった。
かつての天使は今、悪魔として私の友人になった。私たちはともに聖書を開き、その中に潜む地獄的な意味を読み取る。私は地獄の聖書を持っている。それは世界が望もうと望むまいと、やがて持つことになるだろう。
プレート25〜27:自由の歌
最後は「自由の歌」。ここで語られる“自由”とは、FreedomではなくLibertyである。
Freedomが大衆的な自由なら、Libertyは精神的・哲学的な自由。アメリカの自由の女神が象徴するのは前者であり、ミルトンのサタンが語ったのは後者である。
望むだけで行動しない純潔を語らせるな。なぜなら、あらゆる生きとし生けるものは、すでに神聖なのだから。
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