テレビという“魔法の箱”の正体
テレビ。それは今でこそ“ただの箱”と化しているが、かつては夢の機械だった。
始まりは20世紀。部品の開発自体は19世紀から始まっていたが、「テレビ放送」が現実のものとなったのは1941年、アメリカにおいてだった。敗戦国・日本にこの技術が届いたのはそれから十年以上後、1953年のこと。
当時、テレビは街頭に設置されたり、金持ちの家や商店にしかなかった。まさに「公共の魔法アイテム」だったのだ。
そしてアメリカが1954年にカラー放送を開始すると、日本もすぐに追随。1960年、NHKがカラーテレビ放送を開始した。「カラーテレビ」は今でいうところのiPhoneのような、ステータス・アイテムだった。
たとえば三島由紀夫の小説『レター教室』(1966年)には、白黒テレビを観ながらお菓子をむさぼる青年・丸トラーが登場する。彼はカラーテレビを“憧れの品”として夢見ている。
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番組の“進化”と劣化
テレビはブラウン管から液晶へと姿を変え、画質も音質も進化を遂げた。しかし中身はどうか?
ニュースは棒読み、バラエティはバカ騒ぎ。政治家は深刻な顔で国を語り、コメンテーターは揚げ足を取るだけ。――見ていられない。
確かに、有益な番組もゼロではないだろう。だが基本的にテレビは退屈だ。いや、むしろ“不快”だ。
視覚と聴覚を占拠されるのに、見る側にはそれを拒否する手段がない。
「スイッチを切ればいいじゃないか」――そう言えるのは、それが“自分の権限で切れる”環境にいる人だけだ。
テレビには2つの“声”がある
テレビの音声は大きく分けて2種類しかない。
- 必要以上に深刻なニュース・トーン
- 無理に明るい未来を描こうとするハイテンション・トーン
ニュースはまるで葬式のように低い声で、いかにも「重大な事件だ」と深刻な表情で語る。でも実際には政治家のセクハラや帳簿の改ざん、あるいは有名人のどうでもいいスキャンダルだったりする。
一方、CMやバラエティ番組は「元気があれば何でもできる!」式のハイテンション。特に日本は、戦後ずっとこの②の“無理ポジティブ路線”を走っている。
黙示録と“テレビ”という現代の獣
新約聖書の巻末には『ヨハネの黙示録』という、終末の幻視が描かれた書がある。
この書は旧約聖書の『ダニエル書』と多くの点で共鳴し、とくに「終末に現れる獣」のイメージは両者に共通する。
その「獣」は非常に強大で、過去に現れたどんな存在よりも異様である。聖なる地を踏み荒らし、噛み砕く。そして人々は「目があり、大きなことを語る獣の像」を拝むようになる。
この“像”を拝まなければ、反逆者として命を奪われる。
逆に“像”を拝み、額や右手にその印を受けた者は、富と栄誉を約束される。
――この「獣の像」、現代に生きる私たちにとって、それはテレビのことではないだろうか?
さらに黙示録には不可解な言葉が出てくる。「ゴグとマゴグ」。これらは世界に解き放たれ、人々を惑わす存在とされるが、その語源を辿ると、「屋根」「家」の意味を持つとされている。
つまり、「獣の像=テレビ」、「ゴグとマゴグ=家々の屋根に設置されたテレビの受信アンテナ」――
そんな風に読み解いてみることはできないか?
二千年前の預言者が未来の文明を幻視したとすれば、それはどれほど異様に映っただろうか。
ちょうど、19世紀の詩人ボードレールが『七人の老爺』で、まるで現代の“歩きスマホ”のような風景を詩の中で描き出したように。
あのテレビの、終わりなきバカ騒ぎと深刻ぶった報道の“2トーン”。
それらが今日も、永遠に続く幻影として私たちの感覚を覆い尽くしている。
📚ボードレール『七人の老爺』の解説はこちら →
👉 預言者のビジョンとしての詩
編集後記
この記事が単なるテレビ批判として読まれたら悲しい。これは“映像と音声の力”に対する、ひとつの問いかけである。
テレビをどう使うか、何を見て何を見ないか。それを選ぶのは“視聴者のあなた”だ。
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