北朝鮮ミサイルと“虚構”の現実
北朝鮮による弾道ミサイル発射の脅威が、いまだ現実のものとして続いている。どうしてそれを知っているのかといえば、テレビのニュースやネット情報で連日流れてくるからだ。
仮にこの3次元世界が“神の創造したヴァーチャル・リアリティ”であったとしても、「北朝鮮という国が存在している」「大日本帝国という過去の国家があった」といった歴史的事実は、今のところ否定できない“共有された現実”として機能している。
ニュースに漂う“無感情”
日本のテレビ報道を見ていると、どこか現実感のない無機質さを感じる。政府の報告、議員の答弁、記者会見──どれも日報のように淡々とした文言が並び、虚偽や空疎さが透けて見える。
いっそ昭和45年に自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決した三島由紀夫の演説でも放送してくれた方が、よほど“報道”になるのではないかとすら思う。
思考停止したまま情報を流し、受け取る。ニュースとは、いまやそんな“機械的なループ”に陥っているように見える。
嘘とフェイクの時代に
ストラテジーゲームですら、相手を欺くためにフェイク情報を流す。スポーツでさえ、フェイントは基本戦術だ。
にもかかわらず、戦争・国防といった死活的な領域で「敵の発表」をそのまま報道し、それに右往左往する──冷静に考えて、滑稽だ。
戦争が情報戦であるという大前提が、メディアにも国民にもすっぽり抜け落ちているように思える。
政府対応の“儀式化”
たとえば、北朝鮮がグアム方面へのミサイル発射計画を公表し、その軌道が日本の上空を通過するという報道が出る。
すると政府は、通過予定の都市に迎撃ミサイルを配備し、「断じて容認できない」「極めて遺憾」といったテンプレート的な声明を繰り返す。
これは本当に“防衛”なのだろうか?それとも「何もしなければ批判されるから、形だけ動いている」のか。
現場の緊張感よりも、“儀式としてのリアクション”に見えることが多すぎて、むしろ虚しさすら覚える。
三島由紀夫が求めたもの
三島由紀夫が理想とした日本人のあり方は、武士だった。あるいは神風だった。
だが今や、そのような精神はどこかに消えてしまったように見える。憲法は日本人を「骨のない存在」に変えてしまったのか──ネットでは“チャーハン”だの“ワロタ”だのと匿名で茶化すことしかできない。
諸外国からあからさまな挑発が繰り返されているにもかかわらず、それにどう向き合えばいいかさえ考えない。思考の空白が、国の表情からも、個人の言葉からも透けて見える。
夢と現実の裂け目
では、私たちはどうすればいいのだろうか?何を考え、どこから語ればいいのか。
この世界が夢だったと気づく時──あるいは、夢の裂け目から“現実”が侵食してくるような時──唯一制御できるのは「自分の思考」しかない。
たとえ虚構が現実を覆い尽くしても、夢が真実のように振る舞っても、自分の精神が崩れないよう準備すること。それだけは、誰にでもできることだ。
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