小説

三島由紀夫【音楽】「精神分析における女性の冷感症の一症例」〜について紹介

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またすごい本を読んでしまった。たまたまかもしれないが読み終わった昨夜から眩暈・吐き気・耳鳴りがする。今後氏を三島由紀夫先生と呼びたいがそこは我慢しよう。

手記 

この長編小説はとある東京の精神分析医、汐見が綴った麗子という性的不能者の治療記録という態をとっている。要するにセックスで感じない・マグロの女性である。

現代多くの日本の若者たちがあらゆる性に対して自由と解放を与えられながら、生涯未婚・草食・性的無気力に陥っている現状に照らしてみれば、不能の何がそんなに大問題なの?という感があるのは否めない。しかし昔からフロイトなどの学者先生方は、性について人間の根本問題として延々と深遠な考察を続けてきた。

大人の玩具やAV、インターネットなど代替的快楽のない時代「やれない・できない」ということは、生きる意味もないくらい命に関わる大問題だったのだろう。戦後日本、やることがないからセックスばかりして団塊世代が大量に生み出されたのは言うまでもない。

 レコード

患者の麗子は分析医の元を訪れて症状を述べる。それは「私、音楽が聞こえないんです」というものだった。「音楽」が性行為におけるエクスタシー、オルガスムスに揶揄されているのである。それに対して不能を音楽が終わった後のレコードの無音状態に譬えている。

筆者もレコード・プレイヤーやレコードのことは知っている。CD(コンパクト・ディスク)が流通し始めたのが高校の頃で、中学の3年間は実家にあるどデカいコンポーネントを使って音楽を聴いていた。LPレコードの大きさは宅配ピザのLサイズくらいある。割れやすく傷がすぐ付くから埃など細心の注意を払って拭かなければならない。

そいつをそうっとプレイヤーの上に置く。ターン・テーブルという部分だ。これはラップのDJに興味のある人は知っていることだろう。ボタンか何かを押してそれを回転させ、針をレコードの最外周へ静かに手で載せる。自動で載せるものもある。

やがて温かみのある重厚なサウンドが部屋に響き渡る。音楽がかかっている間は、特に何もしない。一心に聴くだけである。大きなレコード・ジャケットの写真を眺めたり、歌詞を読んでみたり。A面が終わる。B面を聴くには今度はレコードを裏返して、同じことをする。

レコードは終わった後針を上げないでそのままにして置くと、最内周でブツッ・ブツッという針の音とともに延々と回転し続ける。音楽は聴こえない。小説では性的不能を訴える麗子の状態をこのように現している。

 治癒

汐見の不断の努力によって麗子は最後には治癒し「音楽が聞こえる」ようになるのであるが、そのゴールへ辿り着くまでの過程が三島によって緻密に描かれている。汐見はハンニバル・レクターではないかもしれない。しかし作者の三島由紀夫は「羊たちの沈黙」のレクター博士のように冷徹だ。麗子がどうやって不感症を治すか、また何がそれらの原因だったかは読んでみて確かめていただきたいと思う。

三島由紀夫の特定の作品全てに当てはまることだが、時代背景としてこの「音楽」も戦後日本のカオスが舞台である。そこでは街の狭い路地裏の暗がりに何が潜んでいるかわからない。グーグル・マップも監視カメラもない。今や田舎の農村の田んぼや山林にしかないような不気味な闇が東京を包んでいる。その道の角を曲がった時そこに何があるのか、行ってみなければ誰にもわからないのである。

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