概要
中村元ほか編「岩波仏教辞典」によると、阿頼耶識(あらやしき)は唯識論法相宗独自の教義で、人間の最後の、第8番目の識を言うという。遊園地の施設みたいな感じを受けるこの用語は、例によって梵語の音訳と漢訳の合わさった複合語である。
すなわちアラヤという音写と識という訳の合成。仏教語のいつものことながら、まずは漢字に惑わされて誤解のないようにしたい。
また三島由紀夫の『暁の寺』に大ボリュームの小論文(矛盾した言い方だが)が挿入されているのも知られる。インドから中国を経て日本に輸入された大乗仏教は、とかくややこしい。
仏教とはそもそもシンプルな教えであることを信じてきた筆者は、日本の仏教をずっと警戒してきたが、その敷居を乗り越えて今学んでいるところである。
参考記事https://saitoutakayuki.com/syousetsu/mare-fecondis2/
複雑
このように仏教が複雑になったのはインドの国民性もあれば中国の国民性もあったろう。そのようなわけで『仏教辞典』のようなものも机の横に常備しなければならないことになったである。
ただでさえ複雑なのに、それをますますわけがわからなくしている三島の論文は、はっきり言って意味不明である。
また弘法大師の『秘密曼荼羅十住心論』に「心王」という言葉が出てきて(これは弘法大師が造った言葉でなく他の経典からの抜粋なのだが)、異様に関心を引いたのを記憶する。
「心王」とは、外でもないこの阿頼耶識を指す。
末那識
文字通り心の王である阿頼耶識とは、定義だけ言うと:第一から第六までは誰でも感知できる。眼・耳・鼻・舌・身とそしてこれら五感を神経ニューロンを走る電気を通して細胞間を伝達された情報を受け取り処理するところの「意」識すなわち脳である。
第一から六までは人間の有機体なので死んで火葬されればすべて消滅する部分であると言える。さて問題は七番目末那識(まなしき)である。これもマナの音写と識の複合語。末那識は、夢の中でも働いているあの識、現実と夢を区分け分別するところの心の部分であると考えられる。
修行者または二乗と呼ばれる自分だけの救いを求める行者は、もっぱらこの七番目を用いて解脱を図る。なぜならば末那識は有機体を超えているが、六官に”接して”いる所以である。
もっと下等な外道だと、六番目の「意」識が自分の心だと考える。三島由紀夫はこれである。
心王
「心王」は末那識のさらにうえ、最後の識であるが、これはグノーシス派の覚知とか、砂漠の修道士たちの唱える「言い表せないもの」に近い。
小学校の時に、無限についてとか宇宙の外についてとか、生まれる前や死んだ後についてとか、世界のできる前とか消滅した後とかについて考えたことはあろうか。そんな時、気が狂いそうになった覚えはあるだろう。
私は今、あえてこの発狂に身を委ねているのである。これが「心王」であり阿頼耶識だからである。
止観
「止観」は禅の本来の意味内容であると、前に書いた。天台大使は『摩訶止観』でこの禅定の大いなる甚深の妙功を教えた。摩訶は大の意である。
完全な思考の静止と常に動くものとの観察、道は無為においてあらゆる働きをする。何もしなくても心に現れ、消えて往く、を繰り返す幻。
『出エジプト記』に「私は有るという者」と語る何かがモーゼに話しかける。阿頼耶識はあれに近い。
「我思うゆえに我あり」と語るフランス人。あれに近いが、阿頼耶識は「我思うゆえに我ありと思う我無し。有りという有り有り」であろう。