谷崎潤一郎訳『源氏物語』「夕顔」巻を読む|幽玄と怪異が交錯する古典の美学

小説

幽玄なる『夕顔』巻:谷崎潤一郎訳による美意識の継承

序論

平安文学の頂点たる『源氏物語』は、その幻想的な語り口と幽玄な美が今も人々を惹きつけてやまない。特に第四帖「夕顔」は、主人公光源氏と〈夕顔〉との儚い恋物語が夜の闇の中で悲劇的に結実する、いわば古典ホラーとも呼べる展開を持つ。この章を谷崎潤一郎が現代語訳で綴った『潤一郎訳源氏物語』は、刊行当時いずれもベストセラーとなり「源氏物語ブーム」を巻き起こしたja.wikipedia.org。本文の魅力や現代語訳の意義を論じるにあたって、ここでは原文の持つ幽玄さ、日本語で読む意義、そして訳者谷崎の美意識に焦点を当てて考察を進める。

「夕顔」巻の物語構成と幽玄性

「夕顔」は、光源氏がある夏の夜に〈夕顔〉という名の庶民の女性と出会い、静かに愛を育む物語である。しかし物語は中盤、劇的な転機を迎える。旧い邸で密会を重ねる光源氏の夢に突如「女性の霊」が現れ、源氏が目覚めると障子の灯火が消え、〈夕顔〉は意識不明の重体となっていた。そして明け方、僅かな灯明の光の中で、夢に見た女が一瞬姿を現し、〈夕顔〉は息を引き取るja.wikipedia.org。このように登場人物は少ないながら、佳人薄命を絵に描いたような悲劇的結末が強い印象を残すja.wikipedia.org。闇に沈む舞台設定、原因不明の霊現象、花の名を持つひと夏の恋――これらが重なることで、物語には古典的な怪異譚としての趣が滲み出す。夜半の幽かな灯火の下で草庵が包む、静謐かつ恐ろしげな雰囲気は、まさに日本文学ならではの幻想的幽玄美を象徴していると言える。

日本語で読む意義:古典への架け橋として

谷崎潤一郎は旧態依然とした文語体ではなく、新字新仮名の現代語で『源氏』を翻訳した。これにより現代の読者も読み易くなった一方で、彼は原文の雅な味わいを損なわないことに腐心した。実際、谷崎自身は昭和初年に「現代の日本文は非常に煩わしく醜いものになった」と警鐘を鳴らし、対極にあるものとして『源氏物語』の「文章の美しさ」を高く評価してみせたshizuoka.repo.nii.ac.jp。そしてこの古典の美を生かす手段として、谷崎は現代語訳においても主語を多く省略し、文体をできる限り原文に近づけようと試みているshizuoka.repo.nii.ac.jp。例えば原典で主語のない句では、敢えて現代文にも主格を加えず、敬語や語尾で話者を示す工夫を施した。その結果、与謝野晶子など他訳に比べて谷崎訳はやや古風な韻律を帯び、原文の陰影が残る訳調となっている。したがって読者は、谷崎訳を通じて古典『源氏』の文章美をより直感的に味わうことができ、原文への興味を誘われる。これはまさしく、現代日本語で読みながら古典文学への関心を喚起する意義を体現するものである。

訳者の陰翳美学と表現意図

谷崎は自著『陰翳礼讃』で日本伝統美の根幹を「陰翳」に求め、日本建築や漆器などに特有の「光と影のコントラストが生み出す幻想的美しさ」を謳い上げているaigen-sha.co.jp。その美意識は『夕顔』翻訳にも色濃く反映されている。たとえば夜の秘密の逢瀬や薄暗い邸内描写では、照明が消えた室内の暗がりや窓外の虫の音が生む静寂が丹念に描かれ、読者は闇の中に漂う美の世界を想起させられる。谷崎は翻訳に際し、原文の「幽かな明かり」と「ものの怪めいた影」を損なわぬよう心を砕いたのである。また訳文全体に漂う鎮静なトーンや、色彩を抑えた表現には、まさしく『陰翳礼讃』の唱える感性が息づいている。かつて三島由紀夫が『金閣寺』で美にとり憑かれた男の狂気と寺院の運命を描いたように、谷崎は美の破滅的必然を直接的には描かない。むしろ光源氏と夕顔の儚い愛そのものが、美にとっての空虚さや底知れない闇を暗示する象徴として立ち現れている。夜闇に沈む庭、瞬く虫の音、そして消え入るように消えた〈夕顔〉の姿――その全てが視覚と聴覚の微細な対比となり、谷崎の文体はまさに「隠された陰翳」を忍ばせることで、読者の想像力を喚起する。

結論

『源氏物語』「夕顔」巻は、その怪談めいた展開と幽玄な情趣によって、古典文学の奥深さを色濃く伝える一篇である。谷崎潤一郎による現代語訳は、原文の雅趣を丁寧に現代日本語へと継承しつつ、彼自身が主張した日本的な陰翳美を余すところなく盛り込んでいるshizuoka.repo.nii.ac.jpaigen-sha.co.jp。その翻訳文からは闇に沈んだ情景やもの憂げな美しさがにじみ出し、読者は自然と古典への興味をそそられる。今日、わたしたちが『夕顔』を日本語で読む意義はまさにそこにある――詞華を省みながらも、現代の感性で深淵なる幽玄美を味わい、古典文学へのさらなる親しみを育むことである。

参考資料: 谷崎潤一郎訳『源氏物語』関連論考shizuoka.repo.nii.ac.jpshizuoka.repo.nii.ac.jp、および『陰翳礼讃』解説aigen-sha.co.jpなど。

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