【太宰治】について語ってみる|女たらし・酒飲み・甘ちゃん・薬中・腑抜け
津島修治という人間
太宰治――本名、津島修治。1909年、青森県五所川原市に生まれ、1948年、東京・三鷹を流れる玉川上水にて、愛人と共に入水自殺。享年38。
相手の女性は相当に美しく、現代でいえばアイドルやグラビア女優並のルックスだったという。写真を見ると、まるで映画の中の登場人物のように感じる。
日本文学と自殺の影
太宰の最期について「哀れ」と思う一方で、日本文学史を振り返れば、作家の自死はもはや“伝統芸”にすら見えてくる。
芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫、そして太宰。教科書に載るほどの文豪たちが、皆その命を自ら絶っている。三島のように自殺を美学にまで昇華させた作家もいるが、多くは「救いのない終わり」を選んだ。
日本文化には“切腹”という、命をもって潔白や信念を示す価値観が根付いている。キリスト教圏のように「自殺=罪」とする一神教的道徳観が浸透していないため、自死に対する抵抗感が弱い社会構造もある。
むしろ、日本では苦しんでいる者に対し“助ける”という風潮よりも、“叩き落とす”という同調圧力の方が強く働く。週刊誌やワイドショーがその象徴だ。追い詰められた人間が、自死を選ばざるを得ない環境が、文学者の周囲には常にあったのかもしれない。
作家に求めるもの
話を太宰に戻すと、彼は「地獄の底の底」を覗き込み、その暗闇を言葉にしようとした作家である。だが結局のところ、そこから“知を持ち帰る”ことには失敗した。
どんな理由があろうとも、自殺という行為はゲームの途中で電源を抜くようなものだ。自分の結末に責任を取らずに幕を下ろした者を、私は作家として“未完”と見なさざるを得ない。
『人間失格』とその限界
太宰の作品には、たしかに美しく繊細な短編がある。『桜桃』『燈籠』『走れメロス』など、読みやすく親しまれているものも多い。
私も運転中にPodcastで太宰作品を聴き漁った時期があった。
だが、代表作とされる『人間失格』を読んだとき、途中までは「なんとだらしない、面白い人物だろう」と思っていたものの、終盤で落胆した。あれほど「絶望」や「墜落」を積み上げておきながら、物語の結末に“文学的な意味”が見出せなかったのだ。
本当に彼は、あの先に何も見ていなかったのか?
あるいは見るのをやめたのか。
それとも、見ていたが、書ききれなかったのか。
太宰という現実
太宰治という人物は、作家である前に“時代のリア充”でもあった。
女遊び、酒浸り、薬物中毒、自殺未遂を繰り返し、仲間との諍いも絶えず、金に困っては誰かに泣きつく……。それでも彼の言葉は、時に痛烈で、時に繊細だった。
彼は同人誌発行を巡って中原中也と対立し、戦時中も旺盛に執筆を続けた。
まさに「書くことで生きようとした人間」だった――だが、最後まで“生きる”ことには成功しなかった。
そして、太宰をどう読むか
太宰治の作品には、光がある。だが、その光は常に暗闇に縁どられている。
『人間失格』のような作品を読むとき、私たちは作者自身の“出口のなさ”を見ているのかもしれない。
そこから何かを学ぶのか、それとも突き放すのか。
読者それぞれに委ねられているのが、太宰の文学の難しさであり、魅力でもある。
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