【眼球譚】ジョルジュ・バタイユ初期代表作|狂気とエロスを描く暗黒文学レビュー

小説

ジョルジュ・バタイユの処女小説『眼球譚』について、一般人目線でざっくりレビューしていきます。

バタイユの本は、学者先生たち──論文書いて給料をもらうような人たち──がこぞって分析したがる難解さに満ちています。しかし専門書なんて、我々にとってはどうでもいい引用と小難しい理屈だらけ。そんなものを無視して、ここでは純粋に「読んだ感じ」をシンプルに語りたい。

タイトルの意味

まずタイトルからいきましょう。『眼球譚(たん)』──。

「眼球(oeil)」は、この物語の中で重要なモチーフです。眼球、卵(oeuf)、睾丸(testicule)、この三つはすべて形が似ています。そしてそれらが、バタイユの記憶のなかに強烈な印象を刻み込んでいる。

その自伝的背景は、あとがきに書かれています。──と言ってもこのあとがき、作品を理解するうえで不可欠なパートなので、必ず読むべきです。

バタイユは神父の息子として生まれ、父はすでに身障者で、しかも盲目。幼いバタイユは父の排泄の手助けを何度も経験し、両親ともに何度も精神に異常をきたしました。

こんな悲惨な幼少期を過ごしてなお、連続殺人犯にならなかっただけでも奇跡と言っていいでしょう。

精神分析と「眼球譚」

青年期、バタイユはボレルという精神分析医と出会い、治療の一環として「何か書いてみろ」と勧められます。こうして生まれたのが、この『眼球譚』でした。

獄中のサド侯爵がそうだったように、バタイユもまた書くことで、自らの精神の闇に立ち向かおうとしたのです。

『眼球譚』には1928年版と後の改訂版が存在しますが、どちらも狂気じみた内容に変わりありません。

ちなみにボレル医師は、1905年に中国で行われた「凌遅刑(刻み切り)」の残酷な処刑写真をバタイユに贈った人物でもあります。この写真は『エロスの涙』にも登場し、バタイユの生涯の宝物となりました。

あらすじ

物語はこうです──。

若い男とシモーヌというフランス女が出会い、場所も時も選ばず、ひたすら淫らな行為に耽溺していきます。ポルノと呼んでも差し支えない内容ですが、現代の我々からすれば、エロだけなら動画サイトでいくらでも無料で観れる時代。

しかし、当時は写真もビデオも簡単には手に入らない。性的フラストレーションを吐き出す手段が少なかったからこそ、こんな強烈な文学作品が生まれたのでしょう。

エロシーンでは挿入行為よりも、バタイユが愛する「お尻」と排泄への執着が目立ちます。男女問わず排尿描写がやたら多く、脱糞シーンも一度登場します。熱を出して寝込んだシモーヌが、便器に落とした茹で卵の上に排泄するという奇行を展開するのです。

闘牛場の狂宴

途中からマルセルという少女も加わり、恥じらいながら淫らな遊びに溺れ、最後には発狂して首を吊ります。もちろん、二人はその死体でも遊ぶことを忘れません。

やがて一行はイギリス人富豪とともにスペインへ渡ります。シモーヌは教会の懺悔室で神父を誘惑し、聖なる杯に小便させるという冒涜をやらかします。

さらに、闘牛場。闘牛士が角で突かれ、眼球が飛び出すシーンと、シモーヌの絶頂が完全にシンクロします。生の睾丸を女性器に挿入して絶頂するシモーヌ、その瞬間、観衆の歓声が闘牛士の断末魔をかき消してゆく──。

*ちなみに、闘牛というモチーフは文学・芸術と深く結びついています。たとえばゴヤの闘牛版画シリーズや、マンディアルグのエロティック小説『イギリス人』などが有名です。

◯マンディアルグ『閉ざされた城の中で語るイギリス人』レビューはこちら→【城の中のイギリス人】マンディアルグのエロティシズム小説

◯ゴヤ作品レビューはこちら→【ゴヤ】闘牛士・巨人・マハたち〜力強い狂気・エロスに満ちた画家と作品

まとめ──狂気の文学

──と、まあこんな具合の狂った100ページ。筆者は若い頃、これを読んで完全にハマりました。

これこそ暗黒文学だ、と。生の悲惨を笑いへと昇華し、哄笑の中に狂気と超越が渦巻く──そんなニーチェ的な力を感じました。

狂気は、悲しみを笑いに変え、絶望を歓喜に変える。バタイユの笑いは、獣のような神々の高笑い、永遠のエロスの輝きなのです。

──ぜひこの本を読んで、大いに狂ってほしい。8-)

◯バタイユ『有罪者』のレビューもあります→ジョルジュ・バタイユ【有罪者】無神学大全2〜感想・レビュー・紹介

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