ミヒャエル・マイヤーが1617年に出版した錬金術の代表作『逃げるアタランテ』。この本についてはすでに多くのサイトで紹介されているので、ここでは内容の重複は避けます。
以前、フーガ曲付きであることについては記事にしました。今回は、一度読んだだけでは意味の掴みにくい『逃げるアタランテ』を、表紙と50枚の挿絵を手がかりに復習しながら、素朴に読み解いていく試みです。
*(絵も日本語訳本文もネット上で無料閲覧できるため、ここには転載しません)
▶参考:「逃げるアタランテ」フーガと錬金術についての記事→ 『逃げるアタランテ』レビュー|錬金術×音楽×神話が混合する無限の書物
表紙──アタランテ神話
表紙にはギリシャ神話の「逃げるアタランテ」にまつわる絵が描かれています。
アタランテは足の速い美女。彼女は自分に競争で勝った男には身体を許し、負けた男は殺すという条件で求婚者を募っていました。勝利するには、ヘスペリデスの園で竜が守る黄金の林檎が必要です。
ヒッポメネスは女神アフロディーテーから林檎を授かり、競走中にそれを投げてアタランテの注意を逸らし、ついに勝利します。しかし二人は神殿内で愛を交わしたため、女神キュベレーの怒りを買い、ライオンに変えられてしまいます。
錬金術とアリストテレス
『逃げるアタランテ』は錬金術書でありながら、ギリシャ神話の引用が豊富で、むしろ神話解説書のような側面もあります。また、物質の反応についても現代化学のような明快な論理ではなく、詩と哲学の間を漂うような文体で語られています。
この曖昧さは、アリストテレスの『気象論』に非常によく似ています。当時の錬金術が「哲学的な黄金」を求める学問であったことを思えば、学問と宗教、科学と神話が未分化だった時代の空気がよく表れていると言えるでしょう。
つまり『逃げるアタランテ』は、化学でも哲学でもない。当時としては革新的な「見る・読む・聴く」を融合させた、ある種のマルチメディア作品だったのです。
▶参考:アリストテレス『気象論』紹介記事はこちら→“地震”の起こる原因と予知【アリストテレス】「気象論」紹介
知恵という黄金
筆者の私見ですが──。
こうした錬金術書を真に受けた愚か者たちは、物理的な黄金を作ろうと多大な時間と労力を費やしました。しかし、もちろん成功しません。なぜなら本当の黄金とは、聖書にある通り「知恵」だからです。この世の財産はすべて空に過ぎない。
つまり、錬金術とは愚か者をからかうための秘密の遊戯だったのではないか──そう私は考えています。
『逃げるアタランテ』には聖書的寓意はあまりなく、ほとんどがギリシャ神話を基盤としています。もしタイトルが書物全体の主題を表しているならば、「アタランテ神話」を選んだ理由も見えてきます。
それは、「知恵」が女性であり、追いかけてもなかなか捕まらない存在であること。知恵という女神をいかにして捕まえるか──本書は、その方法を示唆する哲学的指南書だったのではないでしょうか。
▶関連:「沈黙の書(Mutus Liber)」についての記事はこちら→【Mutus Liber】by Altus〜ヘルメス高等化学の学徒による「沈黙の書」
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