はじめに
2020年10月、大阪・梅田の商業施設「HEP FIVE」の屋上から、17歳の男子高校生が転落し、下を歩いていた19歳の女子大学生が巻き添えになって亡くなるという痛ましい事故が起きた。
この出来事を報じた記事を読んだとき、私は物理学と、心の在りようについて、奇妙な思索を始めてしまった。人が空から落ちてくるとは、どういうことなのか。なぜ、その「一点」でなければならなかったのか。不可解な偶然と、容赦ない自然法則のもとで、我々の存在はどれほど脆いのか。
心に巣食うもの
まず人間の心というものは、つくづく思うのだが一軒の守りの悪い廃屋に一人で座る悪霊の餌食である。常に悪霊はやってきて心に色々な幻を見せたり、怖がらせたりする。そうしてどうにかして心を捉えようとする。
悪霊が心を捉えると自殺とか殺人とかそのほか大小様々な悪いことを人間にさせる。大阪の商業施設で屋上から男子高校生を飛び降りさせたのも、この悪霊である。
ここまではよくあることだが、飛び降りる高校生はわざわざ人通りの多い場所を選んだ。もし誰かを巻き添えにしたら申し訳ないという、最後の思いやりすらも悪霊に奪われていた。結果として一人の女子大生に当たった。
こんなことはあんまりないことなので、最近勉強したファインマン物理学を思い出しながら宇宙の法則について考えさせられた次第である。
重力という法則
さてファインマンの本によると、たとえ地上10階建てビルの屋上から飛び降りても、重力がなければ体は落ちないし、速度も付かないのである。この重力とは引力と呼ばれるもののことである。つまりニュートンによると全ての物体はお互いに引き寄せ合うのであるから。
そして引き合う力は質量が大きいほどに大きい。我々の体は地球という巨大な質量によって引き寄せられ、ある程度の地上からの距離を置かないとこの「落ちる」という力からは逃げられないのだ、ということになる。
質量と結果
さてそのようなわけで舗装された商業施設の上を人間たちが歩いている。足の骨が彼らの胴体および頭部を支え、運んでいる。目はキョロキョロと動いて、欲望の対象に向かう。さてそんな時、突然真上から50キロか60キログラムくらいの骨と肉の塊が落ちてくる。それは「人間」という生き物でおなじみの形をしており、球形とか四角ではない。
男子高校生はビルという硬い建物から空中に飛び出した。空気は体を支えず体は地球の引力に引っ張られ次第に加速していく。空気は水のように道を開き切り裂かれる。質量かける力かける距離という式で良いのかあまりよくわからないが、住宅の二階から人が降ってきたのとは訳が違う。階高が最低3メートルだとするならば30メートルを超える高さから60キログラムの骨と肉の組織が落ちてくるのである。
果たして女子大生の頭か、肩かわからないが高校生の頭か足か胴かがそれにまず当たった。ここに女子大生がいようがいまいが対して変化はないということがわかった。ただ高校生の死ぬ時間がほんのちょっと遅れ、女子大生の死ぬ時間が遅れたまでのことだった。
舗装は硬い。原子は圧縮すると互いにくっつき合う。コーヒーに溶ける砂糖みたいに。しかしある一定の力をかけて一定の距離まで近づくと反発する。この習性があるから物質は区別されているのだ。鉄と肉が反発するのはこういう次第だ。というわけで潰れた梨の実のように落下した人の体が舗装で崩壊する時、そこにもう一個の人体があろうとなかろうとあまり変わらないのだ。
終わりに
これは悲劇であると同時に、自然現象でもある。「人が落ちてくる」という、我々にはあまりに衝撃的な現象。それをどう受け止めるべきか、私にはまだわからない。
だがひとつだけ確かなのは、重力には感情も配慮もないということだ。そして心の弱さもまた、物理法則のように、時として抗えない力を持って人を動かしてしまう。
二人の命が消えたという事実と、それを動かしたもの──私たちはそれを、簡単な言葉で語ることはできない。ただ静かに、思索するほかはないのだ。
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