【預言とは何か】聖書から読み解く本物の預言と偽預言者の違い|『申命記』『エゼキエル書』より

評論

【預言】について──「占い」との違いを聖書から考える

■『申命記』における戒め

本稿は、聖書における「預言」概念と現代の幻想的予測との違いを照射しながら、”偽りの未来”に対する神の態度を問う論考である。

まず『申命記』(Deuteronomy)より引用しよう(NKJV版):

There shall not be found among you anyone who makes his son or his daughter pass through the fire, or who practices witchcraft, or a soothsayer, or one who interprets omens, or a sorcerer,

or one who conjures spells, or a medium, or spiritist, or one who calls up the dead.

邦訳:

あなたがたの間には、息子や娘を火の中に通らせる者(異教の生贄の儀式)、魔術師、占い師、兆を読む者、呪術師、

呪文を唱える者、霊媒、霊と交信する者、死人の霊を呼び出す者がいてはならない。

聖書はこれらの行為を明確に禁じている。特に「占い」や「霊を呼び出す」行為は、神の御言葉に背く虚妄の行為とされる。


■メディア的「未来語り」としての擬似預言

ここで一つのサンプルとして、YouTubeに投稿された短い動画を取り上げたい。

👉 羽田空港となりに巨大ホテル(1分20秒)

内容は、羽田空港近くに開業予定の巨大ホテルについてアナウンサーが語るものである。左側の女性キャスターが満面の笑みで「未来の賑わい」を語り、右の男性は無言で頷きながら嬉々とした表情を浮かべる。

2020年4月現在──COVID-19パンデミックのただ中で、果たしてこのホテルは予定通り開業し、期待された国際客は訪れただろうか?その答えは、誰の目にも明らかである。

つまりこの動画の二人は「来るべき繁栄」という、架空の未来を信じ込み、それを視聴者に“預言”していたに等しい。そしてそれは実現されなかった。ならばそれは「妄想」であり、「偽り」であったという他ない。


■『エゼキエル書』と偽預言者の罪

さらに強烈な警告として『エゼキエル書』(NKJV)を引用する:

Woe to the foolish prophets, who follow their own spirit and have seen nothing!

They have envisioned futility and false divination, saying, ‘Thus says the LORD!’

But the LORD has not sent them; yet they hope that the word may be confirmed.

Because you have spoken nonsense and envisioned lies, therefore I am indeed against you, says the Lord GOD.

訳:

災いなるかな、自らの霊に従い、何も見ていない愚かな預言者たちよ!

虚しさと偽りの占いを幻視して「主はこう言われる」と語るが、主は彼らを遣わしていない。

それでも彼らは、自分の言葉が成就することを望んでいる。

無意味なことを語り、偽りの幻を見せたゆえに──主なる神は言われる──私は確かにお前たちに敵対する、と。

これはまさに、神の名を借りて虚言を発する者への怒りの宣言である。


■解釈:預言とは「語る力」ではなく「啓かれること」

聖書における「預言」は、人間の想像力やポジティブシンキングから生じるものではない。それは神の意思によって、選ばれた預言者に啓示される“超越的情報”である。

つまり、誰かが「未来はこうなるだろう」と語ったところで、それが実現されないならば──その言葉は虚偽であり、その語り手は「偽預言者」である。

神が発した言葉は必ず成就する。しかし、人間が勝手に描いた幻は必ず崩れる。それゆえ、偽預言者に対して神は宣告する:

「誠に私はあなた方に敵対しよう」──エゼキエル書

これは今なお現代に生きる私たちへの警告である。


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