【COVID-19】緊急事態“解除”の幻想──バラムの驢馬と現代人の視力

エッセー

※本記事について
これは2020年、日本で“緊急事態宣言”が解除された日、筆者が書き留めた記録です。
あれから世界は変わったように見える。しかし本当に何かが変わったのか?
むしろ今こそ、旧約聖書の驢馬が見ていた「見えない危機」に、もう一度耳を傾けるべきかもしれません。

緊急事態宣言の“解除”とは何だったのか

日本政府による緊急事態宣言は、海外のロックダウンと比べて迫力に欠けた。そして、その解除もまた「言葉だけ」の印象にすぎなかった。一体何が解除されたのか? 危機の有無すら、ただの“発言”で決まってしまうような錯覚に陥る。

映画『ランボー2』には、こんなセリフがある。「人間の最大の武器は頭脳だ」。──そうだ、自分自身が“危険”と感じるならば、警戒すべきだし、“安全”と判断するならば行動を緩めればいい。

だが今、果たしてこの世界に“安全”があるだろうか? 戦後75年続いた惰性的な平和の時代は、すでに終わったのではないか。私たちはまずその事実を自覚するべきだ。

驢馬の視点──旧約聖書「バラムの驢馬」より

聖書の一節に、不思議なエピソードがある。イスラエルを呪うために呼ばれた預言者バラム。彼は「主」の許可を得て旅に出るが、途中で“抜き身の剣を携えた御使”に道を阻まれる。

バラムの乗る驢馬だけがその姿を見て恐れ、逃げようとする。バラムはそれを何度も鞭打ち、道に戻そうとする。ついには「主」が驢馬の口を開き、彼にこう語らせる。

「あなたを乗せてこれまで歩いてきましたが、一度でも逆らったことがありましたか? 何故、こんなにも私を打つのですか?」

そのとき、ようやくバラムにも御使の姿が見えるようになり、驢馬の行動が“主人”を守ろうとしていたことに気づく──。

見えないものを見る目

私たちは、バラムのように「見えない」状態で、ただ過去の延長線上に未来があると信じているのではないか。だが、世界は明らかに変わってしまった。驢馬のように“敏感に”危険を察知する感性が、いま求められているのではないか。

悟りと畜生道

仏教の開祖である尊師(釈迦)は、人間の心が絶えず“走り回る”ことを憐れみ、苦しみから逃れる術として教えを説いたという。だがその最初、彼は「教えても無駄だ」と一度は伝道を放棄しかけた。

──なぜなら、人間は欲望を制することができず、餓鬼や畜生、地獄に堕ちる存在であるからだ。

コロナ前の世界が“愚者の楽園”だったとすれば、緊急事態が解除されようと、私たちはまたそこに戻っていくだけなのかもしれない。しかしその楽園は、すでに虫に喰われて腐っている。

惡の華の一節を添えて

“古い蜜柑を力一杯絞るが如く、我らは後ろめたい行きずりの快楽を盗む”
——ボードレール『惡の華』より

この詩のように、すでに損なわれた快楽にすがり、過去の幻想をなぞろうとする人間の姿。それがいま、私たちが進みかねない道だ。

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