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和田克徳著【切腹】【切腹哲学】レビュー〜紹介・感想・考察

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著者

「和田克徳」はネットで二.二六事件や三島由紀夫の割腹自殺について調べていると、たまに出くわす名前である。しかしこの人についての情報はまず出てこない。

今回運よく筆者はオークションで安く【切腹】という本をゲットした。誰も入札しなかったからだ(笑)。

太平洋戦争真っ只中の昭和18年発行、初版1500部のうちの一冊である。出どころは九州のブックオフ。九州という場所柄は血の気が多いようで田舎武士の武勇伝が多い。三島が晩年ハマった神風連なども熊本だった。

内容

中身は古い漢字が用いられたカチカチの軍国主義の聖典といった印象。しかしただそれだけの本と呼ぶにはあまりに勿体無い。これは非力ながらも出来得る限り一読者としてレビューしなくてはならぬ、と思った次第である。

この本は元々昭和2年3月発行の【切腹哲学】の重版を依頼された著者が、気持ち新たに筆を加えた物である。従って内容は両者重複する部分が多い。が読み比べると「切腹哲学」の方がどちらかというと爽やかな印象があるのに対し、「切腹」はやや絶望的である。やはり日本の苦しい戦況を反映しているのだろうか?

しかしこの1500部はどんな読者を対象としていたのか。当時は出版と言えど貴重な物資(つまり紙だ)を必要とし、政府に許可申請が必要だった。三島由紀夫も駆け出しの頃、そうやって本を出した。

渡邊錠太郎・陸軍大将

「切腹哲学」には陸軍中尉・渡邊錠太郎氏の序文が付いている。2.26事件当時、教育総監・陸軍大将だった氏は荻窪の自宅で殺害された。奇しくもその前夜、和田氏は渡邊氏の家を訪れていたという。

渡邊氏は将校が押し寄せて来た時、次女に隠れるように言った。物陰で見ていた娘は大将の最期の様子を証言した。渡邊氏は機関銃によって足の肉が飛び散り骨が露出しながらも、布団に寝そべって拳銃で反撃したという。

「切腹哲学」はダウンロード・マーケットで安く購入可能である。スマホなどでも読めるので、ご興味があればどうぞ。→ 和田克徳 『切腹哲学』pdf

 「切腹哲学」

二つの本を比較すると「切腹哲学」の方は哲学というだけあって、古今東西の宗教や哲学などを引用しつつ日本特有の「武士道」を語っている。そして構成もしっかりしており、何より終わり方が素晴らしい。すなわち最後の第八章は「教育精神」と題され、教育というものがいかに人間の形成に大事であるか、また「職業」とは本来どうあるべきかなどが語られる。誠に胸がすっきりすることが書かれている。一例を引用する。

「吾らがその器でもなきに、強いてその椅子にかじりつくということは、実に醜悪なデカダンスであり、滑稽というよりは寧ろ一種の悲劇である。吾らが己を顧みて、これこそは真に自己の職業だというものを発見した時、始めてそれは美しく尊い。だから畢竟、職業なるものは、他人から授けられるべき性質のものでなくて、自ら発見し、創造して行くべきものなのである」

いかがだろうか。昭和2年にもうこのようなことが書かれている。別にスティーヴ・ジョブズの伝記を読むまでもない。

教育精神

切腹という場に臨み、心動じない余裕を見せるためには、幼少時からの武家の教育があった。それなくして「武士の晴れ技」を成し遂げられるものではない。

同じくして戦後日本の現代の団塊世代以降は、甘いチューインガムのような教育を施されたものである。その樹液が齎す果実は苺みるく・キャンディーのような思想であったとしても驚くには当たらない。しかし人は学ぶことにより、己の思想を改造・改良することは不可能でない。

「切腹」 

「切腹」は「切腹哲学」から歴史や哲学的考察を取っ払って、ひたすら切腹と武士道のテーマを抽出した本である。こちらは戦争に利用されたのだろうか?最後の章は捕虜についての記述で終わる。敵に囚われるくらいなら潔く死ぬべし、という暗示だろうか?

そのため「切腹」は読み終わると目の前が真っ暗になる。この点を除けばムチャクチャ美しい武士道の本である。

日本の歴史

和田克徳の本には学校で習ったことがあって私たちも知っている、様々な歴史上の人物・用語・事件が出てくる。読んで見て改めてこれらの事柄を再確認する必要性を感じた。

例を挙げる。古事記、儒教、万葉集、平家、源頼朝、北条氏・藤原氏、公家政治・武家政治・立憲政治、赤穂四七義士(いわゆる忠臣蔵)、山鹿素行、近松門左衛門、武家諸法度、2.26事件、その他大学教授か三島由紀夫でないと分からない人名・用語・言葉が沢山出てくる。

ちなみに1900年に「武士道」を出した新渡戸稲造は全く言及すらない(笑)。多分この方はただの学者で武士ではなかったのではないか。学者の語る武士道は外人がそれを語るに等しい。

文章は全体にわたり非常に格式高く、日本文化というものについて再び考えさせられる。三島が守りたかったのも、これだったのだろう。

敗戦

「降伏より死を選ぶ」という武士道は、二発の原子爆弾によって終局した。日本という国を一人の武士と譬えてみる。その人は壊滅ではなく、生存を選んだ。そしてポツダム宣言が日本武士道の放棄を要求・日本は承諾した。

憲法は戦勝国の要請に従って造り替えられた。大日本帝国とその軍隊は去勢された。平和主義の憲法と存在意義不明瞭な自衛隊がそれに代わり、現在の日本が出来上がった。

それでも日本人の心は武士道に根付いている。それを完全に消し去ることはできない。例えば「真剣」「真面目」という言葉、安易に使っていることと思う。これらは切腹を根本思想とする武士道より来たる言葉なのだ。すなわち「真剣」は本物の刀で腹を切ることだ。扇子や木刀でではない。また「真面目」とはそのためなら命を捨てて顧みぬ武士の真の面目のことなのだ。

 切腹の作法

確かに敗れて尚生きながらえるのは武士の恥かもしれない。だがもし降伏しなかったら、これら美しい文化も全て消えていたであろう。Youtubeで能楽や浄瑠璃を鑑賞することもできなかった。

「切腹」「切腹哲学」には切腹の作法が何もかも仔細に記載されているから、これを読めばあなたも切腹通になれる。え、ならなくてもいいって?

切腹の図

 挿話

素晴らしい挿話が随所多数散りばめられている著作から、厳選して二つ最後に紹介したいと思う。

「切腹哲学」「切腹」どちらにも記載がある「レ氏の切腹観」においては、英国公使秘書官レディス・デイルの"Tales of Old Japan"からの引用がある。すなわち1868年(明治元年)2月、兵庫の外国居留地において備前藩の者が発砲する事件が起きた。その責任をとり32歳の瀧善三郎が9日午後10時30分、清福寺において執り行われたる厳粛な儀式の元切腹した。

その様子は本の約10ページ近くにわたって細かく描写されている。まさに幽玄な妖しさを漂わせており、現代のいかなる本を探そうともこのような荘重な物語は見つかるまいと思う。

赤穂義士

もうひとつは歌舞伎・人形浄瑠璃の題目である仮名手本忠臣蔵で有名な、赤穂四十七義士についてであり「赤穂義士の切腹」に記載がある。まずは書き出しの抜粋を。

「元禄15年12月14日夜、雪は霏霏として満都を埋め、人皆泰平の夢を貪る江戸の衢に、血潮の花を咲かせたる一驚異が起こった。」

事の起こりは天下の江戸城大廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭が幕府の高い役人・吉良上野介の背中と額を切りつけたことによる。切りかかった理由は現在も不明。これにより事件発生わずか8時間後に浅野氏は切腹に処せられた。

亡き君主の仇を討つべく赤穂の義士四十七人が元禄15年12月14日、吉良邸に討ち入りしたのだった。

この事件は当時大問題として議論を呼んだ。彼らの行いは犯罪か、それとも武士道によるものか。何れにしても義士らは討ち入りの時点ですでに命を捨てる覚悟だった。彼らはそれぞれ順次切腹に処せられる。

大石主悦

中でも松山藩松平定直邸に預かりの身となった義士十人に、最年少の大石主悦良金がいた。わずか16歳。

元禄16年の正月、定直は良金に向かい言った「汝は母の身を偲ばずや」。

良金答える、「情愛深きお言葉に接して、始めて思い出し侍りぬ。母はわが郷を出る時亡き君のために尽くす身は、母のことを思うなかれ。母はすでに死せりと覚悟せよと諭し候ひき」と答えた。

定直以下並み居る者皆仰ぎ見るを得なかったという。この挿話は「切腹哲学」ではもっと長く扱われ記載されている。絶対に泣ける。

そして2月4日、大石主悦を一番目として次々と義士は切腹した。

これら天晴れな赤穂義士らを教育した人こそが山鹿素行だった。

まとめ

書いていたらキリがないくらい密度の濃い本だから、この辺にしておく。どちらかといえば「切腹哲学」は「切腹」よりお勧めだ。また題名が現代日本人からして見れば恐ろしく、最初抵抗があるが読んでいるうちに慣れてくる。旧漢字のページもすぐに慣れる。英語を読むのと同じだ。

健全な精神・魂は本来球形であるはずだが、外部から不本意な圧迫を受けると凹む。そして精神は元の球形に戻ろうとして足掻く。そのためにデス・メタルなんかを聴いたりする必要があるのだが、和田克徳の本は同じ意味で精神衛生上有効なものだと言えよう。 😎 

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