『荘子』岩波文庫版から読み解く道思想の本質と無為の哲学

哲学

『荘子』を読み解く:無為と「道」への誘い

中国戦国時代末期に成立した『荘子』は、老子の『道徳経』と並ぶ道家思想の中核をなす古典であるen.wikipedia.org。近年では、老子・荘子の老荘思想に魅かれる人々や、禅仏教の哲学的背景を探る人々、さらには平安時代の学者・菅原道真(845–903年)が愛した中国古典への関心などがきっかけとなり、『荘子』に触れる機会が増えている。実際、戦国時代後期にはすでに老子の「道」「徳」「無為」などの思想が知られつつあり、「道」を万物の根源と考える見方もこのころ生じたとされるja.wikipedia.org。また、『荘子』の自然主義的・懐疑的な視点は、中国禅(禅宗)の形成にも影響を与えたことが指摘されているplato.stanford.eduen.wikipedia.org。一方、日本においても菅原道真のような漢文学者が存在し、「和魂漢才」の思想に象徴されるように和魂(日本固有の精神)と漢才(中国の学問)との融合が唱えられた時代背景があったja.wikipedia.org。こうした背景から、岩波文庫版『荘子』(全4冊、金谷治訳注)を読むことは、自然の法則としての「道」やそこから導かれる無為の生き方を考える格好の契機となる。本稿では上述の背景を踏まえつつ、一般読者にも理解しやすい形式で『荘子』の「無為」と「道」の思想について詳しく論じ、仏教・周易(易経)との関連性や人工文明との対比も交えて考察していく。

『荘子』における「無為」と「道」

まず、『荘子』のテーマである「無為」について整理しよう。中国思想で「無為」とは文字通り「為すことがない」「成し得ない」を意味し、道家ではしばしば自然の大道(道)に従って努力や抑圧を排した行為のあり方を指すen.wikipedia.org。つまり、外見上「何もしない」ように見えても実は大自然の摂理に「ゆだねて」行動し、その結果として物事が円滑に進むという態度である。『荘子』では、この無為が人間の心身を煩悩や欲望から解放し、生命の変化(生と死)さえ受け入れる境地に現れると説かれる。研究者のヘルレー・クリールは、『荘子』で描かれる無為を「人間界に関わらない純粋な態度」とし、生命と死の不可分性を強調しているen.wikipedia.org。これは、人が「利益や名声を追い求めること」や「通常の道理」を離れ、自然のままに身を任せるとき、初めて到達する心の静寂を示唆している。実際、『荘子』第一章「逍遥遊(しょうようゆう)」では、俗世の煩悩を離れ自然と戯れる人物像が描かれ、こうした自由でくつろいだ境地を「無為の極み」として示唆しているiep.utm.edu。この章では、山間で悠然と暮らす賢者の姿がうたわれ、そこでは固定観念にとらわれない「逍遥(フリーワンダリング)」の境地が理想化されているiep.utm.edu。そして、そのように先入観を脱し「万物の道」に寄り添う様子は、「無為」で生きる者の特徴と説明される。すなわち、周囲の環境の自然な変化に対して敏感に反応し、固定観念や作為を捨てて応じることが無為の行いであると『荘子』は言うiep.utm.edu。言い換えれば、無為とは受動的な消極的態度ではなく、「あらかじめ決めつけず、ありのままに応じる」という積極的な自発性を含んだ概念なのであるiep.utm.eduen.wikipedia.org

次に『荘子』における「道」という言葉を考える。道家でいう「道(タオ)」は、広く宇宙万物を貫く根本原理や自然法則を意味する概念である。戦国時代の学者たちは「道」を社会的な規範だけでなく自然界の流れと捉えており、スタンフォード哲学百科事典も「道」は社会的/自然的な一つの『道筋』の隠喩であったと解説しているplato.stanford.edu。まさに『荘子』の時代背景において、「道」は言葉で表せない深遠な法則として認識されていたわけである。『荘子』自身もまた、天地万物の調和や変化を司る「道」を説く。たとえば宇宙を巨大な球体に見立て、その中で天が極軸(道軸)を中心に絶えず回転しているとしたうえで、あらゆる現象は軸をめぐる変化として生じるとしたiep.utm.edu。賢者はこの極軸に自身を収めることで、複雑な変化に動揺されることなく世の移り変わりを観察できるというのであるiep.utm.edu。これは、人間の理屈や欲望を超えた「万物の道」に身をゆだねる生き方を象徴する比喩である。また、『荘子』では先に述べた「逍遥遊」を通じて、既成概念を捨てて自然の中に身を置くことで「道」と共鳴しうるとも語られるiep.utm.edu。結局のところ、『荘子』の世界では「道」とは固定的・語彙的にとらえられるものではなく、万象を貫く無為自然の営みそのものであり、それに随うことで初めて真の在り方が得られると理解されるのであるiep.utm.eduiep.utm.edu

仏教・『周易』との交差

『荘子』の思想を理解するためには、同時代以降に生まれた他の思想との関係を考えることも有益である。まず仏教との相性をみると、両者は「執着しない心」の教えに通じる部分が多い。『荘子』は人間社会の善悪・生死・大小といった二元的な区別の恣意性をことごとく批判し、それらの「真実性」を相対化することを一貫して示すen.wikipedia.org。これは、仏教で説かれる「空(くう)」や一切皆空の視点と共鳴する。特に中国禅の伝統においては、言葉や論理を超えた直観的悟りが重視されるが、そこには『荘子』の寓話や逆説的手法が色濃く取り入れられているen.wikipedia.orgen.wikipedia.org。例えば禅宗で多用される公案(言葉のはたらきを破る問い)には、『荘子』の語り口や考え方によく似た破格の発想が反映されている。こうして『荘子』の無為自然の思想は、インド由来の仏教が中国に根を下ろす際に取り込まれ、禅の思想形成に大きく寄与したとされるplato.stanford.eduen.wikipedia.org

一方、易経(周易)は中国古来の自然哲学書で、陰陽変化を説く。そこでは「道」は64卦の変化のパターンそのものを指し、「その道は常に変化し続ける」――すなわち、陰陽(堅=陽、衰=陰)が絶え間なく互いを生み変える作用が「道」であるとされているplato.stanford.edu。易経の言葉を借りれば、「隆起と下降が固定法則なく移り変わり、堅と衰が互いに変化し合う」様こそが道であるplato.stanford.edu。この思想は荘子にも通底する。『荘子』でも天地自然は陰陽の交替・季節の変化によって成り立つとみなし、人間に固定観念を捨てさせてこの生態的サイクルに身を委ねる生き方を説く。前述した「世界を極軸を回る塊」と見る比喩はまさにそうした「相対的・循環的」世界観を示しており、己を軸に沿わせてゆれば善悪も正邪も超越し、ただ万物の成り行きを静かに受け止められるというのであるiep.utm.eduplato.stanford.edu

人工文明と自然の対比

『荘子』には、人為的な文明や制度と自然の調和を対比的に描いた箇所も多く見られる。代表的なのがいわゆる「修養」や「大宗師」に見られる原始生活の理想化である。そこでは人間がそもそも持つ自発的な生命力(内功)を発揮するためには、教育や法律といった文化的しきたりを離れた素朴な生き方に戻る必要があると説く。具体的には、人間の本来のあり方を「合抱之木(未加工の丸木)」などにたとえて素朴無為を賛美し、文化が自分たちの自然な感覚を「破壊し損なわせる」と明言するplato.stanford.eduplato.stanford.edu。また、「逍遥遊」の章で賢者は俗世の物欲や競争を離れ、山中で落ち着いた生活を送る姿で描かれるiep.utm.edu。いずれも共通するのは、人工の規範や技術に縛られた生活では道(天性)は得られないという思想である。繰り返すが『荘子』の観点では、人間に固有の自然な傾向は文化・制度の介入を断つことで初めて存分に発揮されるplato.stanford.eduplato.stanford.edu。したがって、現代でいう文明社会の合理主義や効率優先の価値観は、「無為自然」の精神から見ればむしろ不自然な干渉にほかならないのである。

まとめ:『道』とは何か

以上を通じて浮かび上がってくるのは、『荘子』における「道」とは究極的には万象を貫く変化と調和の原理であり、人間の思考で簡単に捉えられるものではないということである。前述した易経の言葉が示すように、「道」は「絶え間ない変化」であり「堅と衰が互いに変化し合う」姿に他ならないplato.stanford.edu。荘子もまた、善悪や大小といった人間中心の価値判断を脱ぎ捨て、「万物」が同一視できる絶対の一体性を探究した。名付けや論理の枠組みは所詮恣意的であり、真の道理を言葉で確定させることはできないと彼は繰り返し示しているplato.stanford.eduen.wikipedia.org。つまり、「道」とは有無や善悪といった対立概念を超越したところに広がる全体性であり、私たちは固定観念を解除することで初めてそれに参与できるのであるplato.stanford.eduiep.utm.edu。結論として、『荘子』を読み解くとは、数千年前の自然哲学が投げかける問いに応えながら、普遍的な「道」の意味を今一度考え直す作業でもある。自然の理法に身を委ね、無為に従うことによって初めて見えてくる「道」の姿を、読者各位も思索していただきたい。

参考文献: 荘子(岩波文庫・金谷治訳注),その他。

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