哲学 評論

【永遠の生命】小学校時代校庭に来た二人の外国人宣教師の話

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体験談

私が始めて「永遠の生命」なる言葉を耳で聞いたのは、小学校1年生か2年生だったと記憶する;昭和時代どこにでも現れる、現代はどうか知らないが外国人の二人組、若い美しい白人の男性が学校の校庭に来た。米国人なのかヨーロッパ人なのか北欧人なのかはともかく、彼らは多分英語で会話していたと推測する。

朝だったか昼だったか下校の時間だったか忘れたが、子供達に小さな細長い絵本というか、折り畳んだパンフレットを無料で配って”お話”を聞かせてくれた。その内容はイエス・キリストの教えと受難と最後の審判についてだった。

感想

幼い私には何のことかわからなかった;「永遠の生命」は何かとてつもないもののように思われ、その概念すら抱くことはできなかった。要するに彼ら外国の宣教師たちの話と絵本に圧倒されたのである。

多分その手の子供向けのキリスト教のパンフレットは今でもあるのだろう。それらの絵は理解できなかったが、凄まじすぎて見ているだけで面白いとは感じた。彼らは学校の敷地脇の一軒家を教会風に改装して教えを宣べ伝えており、乗せられやすい子供達は以後何度か友達同士で教会に話を聞きに行った。

私もまた2、3回行ったがじきに行くのをやめてしまった。一人で中を覗いても誰もいなかったり、何となく寂しい建物だったため敬遠したのかもしれない。貧相な青いペンキを塗り勾配のトタン屋根のてっぺんに十字架を飾ったその家は、今ではとっくに壊され跡形もない。

かつて外国の白人さんたちがいた教会があった所には、ありふれたハウス・メーカーの建てた新築の住宅があるばかりだ。こうしてささやかな思い出は忘れられ記憶の奥深くに沈んだ。

思春期

高校時代私は中村元の「ブッダのことば」にはまった。がこれも自殺願望を強めるだけのように感じてやめた。私の宗教についての観念はこの2種に限られた。仏教の「解脱」つまり”ニルヴァーナ”と、キリスト教の「永遠の生命」であり、宗教とは”救い”を教えるものなのだという概念がうっすらと出来上がった。

両方に共通しているのがどちらも死からの解放である;死、不確かなもの・謎だらけのこの世には若干の確実性のある事物があるが、死はその1つ。つまり我々は生まれ生きている以上、いつか必ず死ぬ。絶対にその時が来る。

解脱

「解脱」は冷徹で数学的なインド哲学によって身体の外へ脱出する方法を説き、「永遠の生命」は神の子を信じることによって死から救われる。さてどちらが難しいか。答えはどちらも同じゴールなのでどちらも同じく困難だ、ということである。

今回は後者の話であるので、前者は前に書いてるし置いておく;この言葉はふたつに分けられる。”永遠の”と”生命”。永遠が何なのか、生命が何なのかわからずに、ふたつが結合された言葉がわかろうはずもない。

生命を知るには死を、永遠を知るには無常を知らねばならない。死も無常も、小学校1年生2年生の子供がわかるはずがない。ただあの二人の宣教師は、子供心の幼い記憶にちょっした爪痕を残したのだった。

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ウィリアム・ブレイクによると「永遠の生命」とは人間の”イマジネーション”(想像力)である。またチベットの秘教によると完全な仏陀は”マインド”(心)のうちにある。これは何を意味するのか;どちらも非・物質だということである。

物質が死であり無常なのであるから必然的にそうなる。結論として物質界には救いは無いのである。だから目に見える世界に救いを求めてきた人たちは絶対に到達できなかったのだ。物質界に「永遠の生命」は無い、それはありもしない”ファントム”(幻)を追うようなものである。

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