*本記事は中村元氏の訳本・岩波文庫『ブッダ・神々との対話』(サンユッタ・ニカーヤⅠ)に依っている。
誤解
日本の片田舎に生まれた筆者の例もそうであるが、仏教はまずもって最初に心に触れてくる教えである。どのようなものかというと、人が死ぬとお寺の坊さんや葬儀屋が来てお金のかかった儀式を行い、遺体を火葬しお墓に納骨する。
以後法事だの何周忌といった法事が続く;これによって死という問題を処理したことにして、これについてはもう何も考えない。次に周囲からの教育に利用される。すなわち善いことをしたなら死んだ後天国に入り、悪いことをすれば地獄へ行く、と。
最終的には善いことと悪いことの行いの数を数えて、善いことの方が多ければ天国へ行き、お釈迦様に会える。また”仏様”や”成仏”は仏壇にある死んだ人の位牌を指し、一連の儀式が滞りなく行われることをいう。
主要な教義
”仏陀”という呼称は”目覚めた人”を指す。なので悟りに至った修行僧は皆仏陀であり、死んでお経を上げてもらえれば仏になるのではない。であるからこの教えを語っている人のことをどのように呼ぶのが正しいかというと”尊師”であると筆者には思われる。
”尊師”とは麻原彰晃のことをいうのではなくて、このような尊い教えを語る師のことを言うのだからである;”如来”は生けるものどもを真理の光によって照らし、苦しみから救うためにこの世に生まれたのであり、”如来”なるゴータマ・シッダルタという人がいたのである。
尊師ゴータマは釈迦族の王の身分であった。お釈迦様・仏様・仏陀、どれも正しい呼び名ではない。では次に主要な教義に入ろう。
激流
「激流」は尊師の教えに最も良く登場する譬えである。すなわちこの世は常に流転・変化しており、何物も一瞬も止まらない(諸行無常の)元素の動きを激しい河の流れに譬えたのである。理法を知らぬ生き物どもは生成・流転の流れ、死と悪魔によって捕らわれている。
尊師の教えには悪魔が出てくるが、神は出てこないという点がヨーロッパ諸国の哲学とは異なっている。『サンユッタ・ニカーヤ』に出てくる神々はむしろ西洋でいう妖精に近いと思われる。
瞑想
尊師の説く苦しみからの救い・安らぎ(ニルヴァーナ)は、「瞑想」の「具現」、「統一」、怠ることなく”思念を凝らす”ことなのである。「なおざりに拭けるな」と尊師は説いている。
さて瞑想と一口に言っても何を瞑想するのか:「理法」である。尊師の説く「理法」を侮り、貶し、謗るものがあればその者は地獄へ赴く。「風に向かって塵を投げるとその人に戻ってくる」と尊師は説いている。
見解
当時のインドでは苦行や修行は一般的だったようだ:そこでは様々な議論や多くの教え・論争、自己顕示があったことだろう。尊師は「見解」すら否定する;感覚したことや思考したことにこだわらず、論争することがない。
「見解」の中でも最も危険なそれは”我が身体あり”である。「体に刀が刺さっているように、頭に火がついているように」この見解を除き去れ、と尊師は説いている。
名称
第一回目を「名称」で締めくくりたいと思う;尊師の教えで最も重要な「名称と形態」。諸行無常の元素の流れに実体があると思いなすのは人の「心」である。これら流動する元素の集合が欲望なのではない。欲望は人の心から起こる;
様々な「名称と形態」が人の心を捉え、欲望を起こさせ、種々の生存に生れさせ、心はそれを求めて走り回る。瞑想が合一していないのである。「名称と形態」をすっかり滅ぼし尽くすには「妄執」を”根こそぎ”えぐりださなければならない。