谷崎潤一郎という未踏の世界へ|初期作品からラビリンス文学の魅力を探る

小説

【谷崎潤一郎】という未踏の世界〜いざ迷宮へ

日本文学への扉

これまでさほど日本文学に惹かれることのなかった私が、その深みと魅力に気づかされたきっかけは、三島由紀夫の作品であった。日本語という言語の奥行き、文字が紡ぐ感性の網——それらは、日本人として生きてきた感覚のどこか深層に触れてくる。

翻訳を通して触れる外国文学にはない、生まれ育った言語だからこそ自然に伝わる微細なニュアンス。私たちには、日本語で書かれた古典や名作を“原文で”味わえるという特権があるのだ。失われつつある日本文化の美を、いま一度読み直す意味は大きい。

三島由紀夫から谷崎潤一郎へ

谷崎潤一郎に関心を持ったのは、澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』の中で、三島が強く影響を受けた作家としてその名が挙げられていたからである。泉鏡花や坂口安吾と並び称された谷崎。その世界には、かつて学生時代の記憶に薄く残る『痴人の愛』『卍』『春琴抄』『細雪』などがあったが、当時は正面から読むこともなく過ぎていた。

あの頃の私は、「谷崎=変わり者、耽美、色恋沙汰」という安直な印象だけで片付けてしまっていた。しかし、今あらためて先入観を捨ててページを開くと、そこにはまったく異なる風景が広がっていた。

ラビリンスの入口で──短編集から始まる冒険

手始めに読んだのは『犯罪小説集』。銭湯の湯船に死体が沈んでいると妄想する男の話や、盗人の心理を描いた一編、そして通俗的な怪奇幻想譚『白昼鬼語』など、雑誌掲載的な側面も持つ短編が並ぶ。

正直に言えば、当初はやや退屈に感じる場面もあり、谷崎文学の真価を測りかねていた。だが一冊だけで作家を判断するのは危うい。三島由紀夫やエドガー・アラン・ポーにさえ“生活のための作品”があるように、すべてが傑作である必要はないはずだ。

“潤一郎ラビリンス”という万華鏡

次に手に取った『お艶殺し』や『初期短編集』(中公文庫)には、驚くべき発見があった。幻想、官能、狂気、江戸情緒が渾然一体となり、文章が一篇の絵巻のように読者を迷宮へ誘う。これこそが谷崎潤一郎の真骨頂なのだろう。

特筆すべきは、谷崎がプレイヤッド叢書(フランスの名だたる作家のみが選ばれる叢書)に収められた、日本で唯一の作家であるという点だ。彼の作品には、フランス文学が愛してやまない〈陰翳〉と〈肉体性〉が息づいている。泥絵具で描いたような妖しい艶やかさ——それは澁澤や出口裕弘が言うように、まさに“退廃の美”なのである。

日本文学の再発見へ

この稀有な作家とその文学世界を語るには、歌舞伎や能を評するほどの素養が求められる。だが恐れず一歩を踏み出せば、そこには深く濃密な美が待っている。私は今、泉鏡花や坂口安吾、そして鴎外へと関心の幅を広げつつある。

坂口安吾については、三島が「太宰がもてはやされて坂口が評価されないのは、石が浮かんで木が沈むようなもの」とまで述べたほど高く評価していた作家だ。鴎外についてはまだ読書には至っていないが、いずれその門も叩いてみたい。

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