【マルキ・ド・サド『ソドム120日』】佐藤晴夫訳・青土社──地獄の饗宴を読む
地獄の序文──マンディアルグと“精神の安全弁”
アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグが書いた『イギリス人』の序文(澁澤龍彦訳)に、次のような言葉がある。
「私は、彼らがたまには彼らの地獄の安全弁を吹っ飛ばしてしまったほうがいいと思う。せめて言葉の力で、彼らのプリニウスや彼らのボルゲーゼ公爵夫人をヴェスヴィオ火山の猛火の中へ突き落とすことができるようであってくれればいいと思う。」
この一節、あるいは同書の冒頭に掲げられたエピグラフ──
「洗練された苦痛に対するあの性的誘惑は、わが子を取って食う雄兎の傾向と同じく、健康な肉体の男にとって自然な誘惑である。」
これらは、今から書くレビューの前置きであり、読者諸兄姉に対するささやかな“アリバイ”である。以下に展開する言葉は、倫理ではなく、欲望と芸術と笑いの地獄から発せられたものである。
サドとマンディアルグ──“鍵”としての『ソドム』
マルキ・ド・サドの『ソドム120日』の日本語全訳は、現在青土社から刊行されている佐藤晴夫訳が唯一のものである。サドと言えば、澁澤龍彦の名がまず思い浮かぶが、澁澤は本書の全訳には踏み込まなかった。
翻訳者佐藤晴夫氏は心理学者であり、その観察眼と筆致は異様に冷静で、狂気の饗宴をこともなげに記録していく。筆者はこの訳に強く感銘を受け、ついに原語版(仏語)を注文してしまったほどである。
本書は私にとって、“神”“真理”“永遠”といった概念を追い続けるこのブログ「xアタノールx」の中で、ある意味“聖典”に等しい存在だ。
マンディアルグはサドに関する論文を書き、『サド侯爵夫人』(三島由紀夫作)のフランス語訳も手がけている。つまり、サドを読むことはマンディアルグを読む“鍵”になる。こう言ってしまえばいい。「サドはマンディアルグを理解するためにこそ、必要なのだ」と。
あらすじ──黒い森とシリング城
舞台はスイス・バーゼル地方の黒い森の奥深く。誰も近づけないシリング城に、極悪非道な四人の道楽者が籠城する。そして始まるのが、四ヶ月、すなわち120日にわたる性的饗宴である。
主役の四人は架空の人物だが、その嗜好は“サディズム”という言葉そのものである。40人の住人のうち、彼らと語り女4人以外の32人は、人間とは見なされず、単なる“犠牲者”として物語の生贄にされる。
物語構成は、序章と第一部がストーリー仕立てで、第二部以降は「実行プラン」の列挙に変わる。語り女は各自150、合計600の情欲譚を語り、第一の女は“単純な情欲”、第二は“複雑な情欲”、第三は“罪の情欲”、第四は“殺人の情欲”を語る。
読書の快楽──妊婦への暴力と笑い
特に筆者が衝撃を受けたのは、妊婦への暴力描写である。第一部ではスカトロが支配し、第二部以降は拷問、損壊、そして殺人へと昇華していく。
しかし私は、これらを読みながら不快ではなく、むしろ異様なほど“楽しい”と感じてしまった。まるでプラトンの『国家』を読むよりも快楽的で、夜の読書時間が心踊るものとなっていたのである。
「読書=快楽」
ここに完成していた。
糞まみれの十字架、妊婦を蹴飛ばす悪魔的な饗宴、胎児を炉に投げ込むシーン。それらを読むたびに笑いがこみ上げ、ページをめくる手が止まらなかった。
現実の倫理やモラルなど、虚飾にすぎない。サドは言う──「人間こそ、この地球上で最も質の悪い害虫である」と。
私もまた、そう思う。人間という存在がここまで滑稽で卑小であるならば、いっそ“生まれる前に葬る”のが慈悲なのかもしれない。ここで私は、サドに全面的な共感を表明しておく。
終わりなき饗宴と“書く”という救い
読者の多くが嫌悪と吐き気を覚えるこの書物から、筆者はむしろ爆笑と愉悦を得た。たぶん私は、四人の主人公のうち最もどうしようもない法院長に近い性格なのだろう。
重要なのは、サドがこの物語を“牢獄のなかで”“毎晩ろうそく一本で”書いたという事実である。幅12センチ、長さ12メートルの巻紙に、ぎっしりと書き連ねられた『ソドム120日』は、彼にとって唯一の自由であり、唯一の快楽だった。
現代のAVや倫理のぬるま湯のなかで、サドの描く“死の饗宴”はむしろ潔い。宴の最後には“残飯”としての犠牲者が一人残らず処分される。ここに人間の狂気が極まる──そしてこの“狂気”こそ、マンディアルグを読み解くために不可欠なものである。
関連リンク
▶️ 【マルキ・ド・サド】「ソドム120日」澁澤龍彦訳・河出文庫版紹介
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