モーツァルト最後のオペラ『魔笛』:フリーメーソンと作曲背景を探る
モーツァルト最後のオペラ『魔笛』
『魔笛』は、音楽の大師モーツァルトが最後に手がけた著名なオペラ作品です。モーツァルトは実際には多くのオペラを作曲しており、「フィガロの結婚」や「ドン・ジョバンニ」などの名作も数えています。中でも「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」および「魔笛」の3作は特に著名で、題材の面白さや舞台の規模、録音技術の発達による普及などもあって広く親しまれているのでしょう。実を言えば筆者自身もこの3作品しか十分に聴いたことがなく、いつか他のオペラも鑑賞してみたいと思っています。しかし、それぞれ長大で奥深いこれら3作を極めるだけでも大変で、他の作品に手を伸ばすのはなかなか難しいかもしれません。
このように、「魔笛」はモーツァルトファンにとっても特別な位置を占める作品です。その魅力はモーツァルト晩年の円熟した音楽性はもちろん、物語の題材や演出の独創性にも表れています。
『魔笛』の特色と物語(テーマ)
「魔笛」の台本には、秘密結社フリーメーソンの秘儀や教義がモチーフとして織り込まれています。モーツァルトの最後の作品だという点だけでも興味深いですが、このオペラの特筆すべき特色は、荘厳で美しい音楽に加え、当時は謎めいた存在だったフリーメーソンを題材に選んでいることです。物語自体は幻想的な舞台で繰り広げられ、一見すると統一された筋書きがないようにも感じられます。まるでフランスの象徴的な物語詩『マルドロールの歌』を思わせるように、直線的なストーリー展開には囚われない不思議な構成です。
実際のあらすじを簡単に紹介しましょう。舞台は架空の王国。王子タミーノは巨大な蛇に襲われ気絶しますが、夜の女王に仕える3人の侍女に命を救われます。タミーノは夜の女王から、美しい娘パミーナが悪魔のような魔王ザラストロに囚われていると聞かされ、彼女を救うよう依頼されます。道中で鳥刺し(鳥捕り)パパゲーノと出会ったタミーノは、魔法の笛の力を借りてパミーナ救出の冒険に乗り出します。
しかし物語が進むにつれ、実はパミーナを保護している高僧ザラストロこそが英知と光明の象徴であり、夜の女王こそ闇と復讐の権化であることが明らかになります。タミーノとパミーナはザラストロの下で水と火の試練を受け、愛と徳に支えられてそれらを乗り越えます。最終的に二人は光の神殿に迎え入れられ、夜の女王とその手下たちは闇へと退場していきます。このように、一見おとぎ話のような筋立ての中に、「光と闇」「知恵と愛」といった人間の成長や啓蒙の勝利という深いテーマが込められているのです。
さらに特筆すべきは、言語や形式の革新性です。当時のオペラはイタリア語で書かれるのが主流でしたが、モーツァルトは「魔笛」をドイツ語で作曲しました。この作品は歌と台詞が混ざるジングシュピール(Singspiel)形式で書かれており、当時としては異色の試みです。あえて母語であるドイツ語を用いたことで、一般大衆にも訴求する民衆的な作品となり、宮廷向けのイタリア語オペラとは異なる親しみやすさを持っています。同時に、この挑戦はモーツァルトの創造性と型破りな精神を示すものであり、彼が時代の先を行く音楽家であったことを物語っています。
フリーメーソンの秘密と『魔笛』への影響
では、その題材となったフリーメーソンとはどのような存在だったのでしょうか。フリーメーソンは、もともと中世の石工ギルド(職人組合)を前身として発足した団体で、18世紀頃から欧州各地に広まったとされる秘密結社です。入会の際に厳かな秘密儀式を行い、コンパスと定規のマークで知られる独自のシンボルや暗号めいた教義を備えるなど、その活動には謎が多いことで知られています。当初は会員や儀式の詳細が外部に漏れないよう極秘に運営されていましたが、現代では組織の存在自体は公になっており、各国で慈善活動や社交クラブ的な側面も持っているようです。とはいえ「秘密結社」と呼ばれる以上、歴史的に見ても当時その実態を完全に知ることは難しく、依然として神秘的なイメージを持たれていました。
モーツァルト自身、ウィーンでフリーメーソンに加入しており、その思想に共鳴していました。こうした背景から、『魔笛』の随所にはフリーメーソンの教えや儀式を思わせるモチーフが散りばめられています。例えば劇中で主人公が受ける火と水の試練や、知恵・勤勉・慈愛といった徳が称えられる場面は、フリーメーソンにおける入会儀礼や理想と見事に重なります。また、物語に登場する「3」という数字(3人の侍女や3人の童子、序曲で三和音が三度響く動機など)の繰り返しも、フリーメーソンで重要視される象徴性の反映だと言われます。物語をただのファンタジーとしてではなく、こうした隠れたシンボリズムを読み解いてみると、『魔笛』は文字通りの台本以上に、音楽と演出によって語られる寓意劇であることがわかります。
なお、秘密結社やフリーメーソンの文化に興味がある方は、澁澤龍彦の著書『秘密結社の手帖』を手に取ってみるとよいでしょう。フリーメーソンを含む様々な秘密結社の歴史や思想が平易な語り口で紹介されており、作品理解の一助となるかもしれません。
『魔笛』作曲の背景:モーツァルト晩年の苦悩
モーツァルトは天才作曲家ではありましたが、その晩年は決して順風満帆ではありませんでした。『魔笛』を作曲した1791年当時、彼は経済的に困窮し、多額の借金を抱えて苦労していました。また体調も優れず、同年の12月には35歳の若さでこの世を去ってしまいます。いかに才能に恵まれていても、人生の最期には貧困や病に苛まれていたのです。
では、そんな彼が最晩年にどのような思いでこの作品を生み出したのか――残念ながら、モーツァルトは詩人でも哲学者でもなかったため、自身の考えや信条を文章として残してはいません。私たちは彼の日記や手紙から断片的に生活の様子を知ることはできても、その内面の哲学すべてを知ることはできないのです。しかし幸いなことに、彼の本当の想いは音楽の中に表現されています。モーツァルト自身が言葉で語らずとも、その音楽を注意深く聴くことで、彼の精神やメッセージに触れることができるのです。
『魔笛』の音楽を耳にすると、モーツァルトが置かれた苦境を忘れて創作の喜びに没頭していたことが伝わってきます。澄みきったアリアや力強い合唱の響きは、まるで作曲者の魂そのものが語りかけてくるようです。事実、彼の紡ぎ出す完璧な旋律の数々は言葉を超えたメッセージを宿し、時代を超えて私たちに感動を与え続けています。明朗で崇高な『魔笛』の音楽には、貧しさや病といった現世の苦しみを超越したモーツァルトの強靭な精神が刻まれていると言えるでしょう。
もちろん、彼には家族を養うための日々の生活費も必要でしたし、債権者に追われる悩みも現実にあったはずです。しかし、自身の音楽に没頭している瞬間だけは、この世のものとは思えない優雅な美の霊感に身を委ねていたに違いありません。『魔笛』の楽想の一つ一つからは、苦難すら忘れさせる音楽の力が感じられます。聴き手である私たちもまた、舞台上で響くモーツァルトの音楽に身を浸すことで、彼が見ていたであろう高貴な精神の世界を垣間見ているのです。
おわりに
フリーメーソンの寓意、ドイツ語で書かれた異色のオペラ、そしてその直後に訪れた夭逝――なぜモーツァルトの最後のオペラが『魔笛』のような内容になったのでしょうか。この問いに明確な答えはありませんが、もしかすると『魔笛』という作品そのものが、モーツァルトから後世の私たちへの謎かけだったのかもしれません。彼は音楽という普遍の言語を媒介にして、自身の信じる思想やメッセージをそっと託したのでしょう。『魔笛』に込められた秘密の意味を感じ取りながらその音楽に浸るとき、私たちはモーツァルトが遺した謎に挑み、そして彼の精神と対話しているのです。
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