グレゴリオ聖歌の音楽性
グレゴリオ聖歌は癒し系として親しみのある宗教音楽。歌唱のみで楽器による伴奏などはなく、至ってシンプルながら聴く人に神秘的な感動を与えずにいられない。しかし通勤時やこれからエネルギッシユな活動をしようとする前にはあまり聴く気にはなれず、ドライブデートのBGMにも似合わない。
キリスト教旧約聖書・荘重なダビデの「詩篇」を主に歌詞としており、ラテン語で歌われる。どちらかというと疲れている時、または深い悲しみに包まれている時に聴くと思わず涙が溢れてきてしまうことだろう。宗教音楽なので親しい人や愛する人を失った時などに聴くと、子供のように泣きじゃくってしまうかもしれない。傷付いた魂を宥める子守唄のようでもある。
聖歌は男性の聖職者の清らかな斉唱によって構成され、伝統ある教会の厳かな空間の中に響き渡る音楽はキリスト教文化の生んだ素晴らしい芸術とも言える。
*Apple Musicで聴く⏩Gregorian Chant; Monks of the abbey of Notre Dame
マンディアルグ「大理石」
グレゴリオ聖歌はマンディアルグの小説『大理石』の「プラトン立体」に出てくる、”ヘルマフロディトス像の胸部の部屋に響き渡る音楽のイメージ”にぴったりハマる。”ヘルマフロディトス”とは両性具有の人間のこと。参考までに紹介しよう。
像の胸部(トラクス)は「血の部屋」。5本ずつ五辺形に配置された25本の円柱があり、柱には拷問と殺戮の絵がびっしり描きこまれていた。絵の中の犠牲者の血が柱に彫られた溝に沿って床に流れ落ち、真紅のため池のように広がる。それらの円柱は像が安置されている、人里離れた孤島の草原を吹きすさぶ風に振動する。
柱は風の力で音楽を奏でるアイオロス琴もしくはパイプオルガンのように、力強い音色を奏していた。この音楽は血の部屋の中で”巨大な子供”の泣き声のように響いていたという。あたかも虐殺された”無垢”が悔悟の悲しみを嘆いているかのように。
そのようにグレゴリオ聖歌は聴くと私たちの忘れられた子供の心、赤ん坊の心を思い起こさせる。その無垢は大人になり汚らわしく黄ばんで、憎しみや裏切りでズタズタにされているのであるが。同時にグレゴリオ聖歌には全てを諦めた魂に訪れる、絶望の安らぎ・静けさも感じられる。
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色々な効用
宗教の枠に縛られず、広い心でグレゴリオ聖歌を味わって構わない。Youtubeなどで気軽に聴いてみてほしい。きっと日頃のストレスとか生活の重荷に疲れた心を静かに慰めてくれるはずである。
癒し系ダンス・ミュージックではリズミカルなドラム・サウンドと組み合わせて、軽快な聴き心地良いポップスに昇華されてもいる。例をあげればエニグマ、ブルー・ストーン、デレリアムなど。
映画にもよくBGMとして使われる。デビッド・フィンチャー監督「ファイト・クラブ」では、エドワード・ノートン演じる不眠症の若者が睾丸癌患者たちの会で、胸が膨らんだ元ボディービルダーのボブに抱きしめられて泣くシーンでグレゴリオ聖歌を流している。
まとめ
総評としてグレゴリオ聖歌は「泣ける音楽」「癒される音楽」「感動する音楽」ということになりそうだ。けれどもいつまでも泣いていても仕方ない。
涙が枯れるまで泣いたら、成すべきことを成さねばならない。それでも人生は続くのだから。