【太陽】象形文字としての肉眼視覚可能な天空の光る大きな物体
太陽神と死者の書
エジプト『死者の書』が太陽神ラーへの讃歌から始まるのは、単なる偶然ではない。彼ら神官たちは“物体としての太陽”を崇拝したのではなく、“見える太陽”に意識を集中したのだ。
太陽は、「善」「唯一者」「原因」「光」「命」など、霊的なキーワードの象徴である。だからこそ、視覚可能なこの発光体の内に、偉大なる秘儀への鍵が宿る。その結果として、『死者の書』は太陽神から始まるのである。
箴言と光の意味
聖書・箴言にはこうある:「主を恐れることは知恵の始め」。知恵とは、恐るべき存在を知覚する力から始まる。視覚=知覚は、外界の認識の中心であり、そして光は視覚を可能にする源だ。
光のない場所で我々は見ることができない。だからこそ、昼の太陽は古来より「知」の象徴であり、霊的な認識の比喩となってきた。
偉大なる発光体
「The Great Illuminator(偉大な発光体)」――その名にふさわしいものが他にあるだろうか。ソロモンの語る“主”とは、まさにこの偉大なる照明者のことだろう。
その光の下、人は自らを人間であると認識する。「我々はこのような形に造られました。我々は“人”と呼ばれます。しかし造り主のことは忘れてしまいました」。
恩寵と知の入り口
「父が私のもとに導かなければ、誰も私のもとに来ることはできない」。これは主の言葉である。
天空に大いなる光として誰の目にも見える太陽。しかし、それを“見る”には特別の恩寵が必要である。なぜなら、それは単なる天体ではなく、「知性の光」に関わるものだから。
その恩寵は「主を恐れる」者にのみ与えられる。傲慢なる者は光に気づかず、暗闇を歩む。
「ある」ことの恐怖
あなたの右手を見てほしい――なぜ、これが「ある」のか? そもそも「存在する」とは何なのか?
この「ある」こと自体がすでに神秘であり、恐怖である。なぜ自分は今ここにいるのか。なぜ在るのか。
あまりに理解できず、人は冗談めかして笑うのだろう。子どもも大人も、食べては出す容器でしかない。その先には、北京ダックのように焼かれ、煮られ、誰かの皿の上にのるだけの未来があるのかもしれない。
参考リンク
【Book of Jasher】「義人の書」洋書レビュー〜退屈な歴史書の中に奇妙な果実を拾う
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