三島由紀夫の「豊饒の海」をボロクソにけなしたからか、氏の怨念で左肩がメチャクチャ痛い。首ももげそうで頭痛がする程である。だが氏が切られたのは右肩だったはずだ。
◯「豊饒の海」劇速レビューはこちら→三島由紀夫【豊饒の海】まとめ〜「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」レビュー・解説・感想
主題
この本は古くは三島由紀夫生前の昭和36年から、最も新しいもので昭和61年の出口裕弘氏との対談までを納めた文章である。他者として三島由紀夫の人となり生き方・作品について語っているものもあれば、直接本人と対談しているものもある。
この記事で扱うのはそれらの対談や作品評価の内容ではない。xアタノールxが着眼するのは生きている人と人同士の関係と、死んだ人と生きている人の関係である。そして記憶の中に生きる人の像の変化などについて書いてみたい。
付き合い
昭和31年澁澤は「サド選集」を出すために三島由紀夫に序文をお願いした。三島は快く承諾し両者の14年間に及ぶ付き合いが始まる。最後に会ったのは澁澤が2ヵ月半に渡ってヨーロッパ旅行に出かけるときに、羽田空港へ三島が見送りに来た。1970年8月。
澁澤は空港でかなり酔っ払っていたそうな。他にも酒を飲んでいたという描写が結構あり、澁澤龍彦が酒好きだったのが窺える。
澁澤と三島の関係が文学の形成の上でとても密な役を演じていたことは、戯曲「サド侯爵夫人」誕生の経緯でもわかる。
◯「サド侯爵夫人」についてはこちら→三島由紀夫【サド侯爵夫人】わかりやすく紹介・2018年最新
生前と死後
人は生きている人に対する時、色々なことを警戒する。失礼なことを言わないようにしなければならないし、世話になっている人ならば機嫌を取り合わねばならない。それが長続きする人間関係というものだ。
そのように澁澤龍彦が三島由紀夫氏生前中書くことは、全て「生きている人」に対し書いている。作品の評論にせよ手紙にせよ、序文にせよ。面と向かった対談は最もその傾向が顕著に見られる。極端にはっきり言えばお世辞の言い合いだ。
しかし1970年11月25日以降に書かれているのは、死んだ三島由紀夫についてである。作品の評価にせよ、生き方にせよ哲学にせよ?
当然ながら人の死後と生前とでは、全くその人に対する扱いが異なる。死んだ人を恐れる必要はないし、もはや世話になることもない。ただその人の残した思い出や記憶、印象があるだけなのである。
その人を失い二度と会うことはない。それが死であり別れである。諸行無常。純粋にその人の好きだった部分や、気に食わなかった部分なんかが記憶になって残る。
出口裕弘
本書の最後に出口裕弘氏との対談が収録されているが、これは文庫版で初めて追加収録されたもの。この本の全ページ中最も真実を語っているのは、三島由紀夫自決直後の澁澤の走り書きではない。この出口氏とのざっくばらんな対談である。
三島の死後16年も経過し人の記憶や印象が純粋に観念化された頃、北鎌倉の澁澤邸で二人は語り合う。出口と澁澤は学生時代からの40年来の友達で、どちらも同じフランス文学者。澁澤龍彦については知っている人も多いと思うが、出口裕弘はバタイユやユイスマンスの翻訳を出して三島氏に一目置かれていた。
生身の三島由紀夫相手だと肩肘張ってた澁澤も、気心知れた「同類」相手だとリラックスしている。しかも議論の中心となっている人間は死んでいるのであるから、ハデス(黄泉)から起き上がりでもしない限りは三島は文句の言いようもない。
生きている時は自慢だった文体や筋肉、名声、金ももう無い。武士の魂というよりは、精神の強さをカメラに向ってアピールする道具だった日本刀もない。
そんな死人を二人が3分の2尊敬しつつ、3分の1嘲笑していることが対談から見て取れる。切腹。笑笑笑、というヤツである。また筆者と同じく「豊饒の海」特に第4巻をけなしている。
結局いくら表面で綺麗事を並べ立てても、真実というのはこれなのだ。腹の底を割った会話がここにある。怖い上司の陰口である。
まとめ
筆者の中でも三島由紀夫は「豊饒の海」で死んだのだ。そしてこの本の二人のように「死人」のことをあれこれ論じたりするのだ。あの大長編第4巻のクソみたいな終わり方を許すほど私は優しくない。仮に第3巻は奇書ということで認めるにしてもだ。
実は「豊饒の海」は8月に書き終わってて、日付は自分が決めた自決の日に定めてあったそうな。これもしてやられた。その日の朝に書き終えたと思っていたからだ。F◯◯K!!