三島由紀夫「死の論理」美学への反証
七生報國
三島由紀夫の作品をまだすべて読み終えたわけではないが、「切腹」「割腹自殺」「自決」という最期の選択に通底する思想については、ある程度見えてきたように思う。本稿では、その「死の論理」に対して、筆者なりの反証を試みたい。
言うまでもなく、三島由紀夫は近代日本を代表する文学者の一人であり、その功績は世界的にも認められている。だが、生前の彼に対して正面から異論を唱えた者がどれほどいただろうか。その意味でも、この考察を公にすることは多少なりとも意義があると信じている。
三島が憑かれた「日本刀による死」は、彼自身が選び取った神聖な終末であり、ある種の完成形であったのだろう。だが、真実を求め、語ることがこの場の目的であるならば、敬意を持ちつつも異論を差し挟むことは許されるはずだ。
なお、三島の「七生報國」の思想には、愛読書『葉隠』の影響が色濃く反映されている。自決にあたっては、主君を「天皇」に置き換えたうえでの忠誠がそこにあった。
◯『葉隠』と三島の関係について→【葉隠入門】三島由紀夫による『葉隠』の解説書を紹介
リア充と美学
三島は映画に出演し、華やかな交友関係を築き、若く美しい妻を迎えた。現代で言えば完全なる“リア充”だ。「文武両道」の体現者として、文学と行動は不可分であるとし、『葉隠』に倣って行動原理を貫いた。
ひ弱な身体を鍛え上げ、剣道にも精通し、国際的な舞台でも堂々と意見を述べた三島は、まさに“生きる武士”だった。その生と死は『葉隠』の教義に忠実であり、自己完結した見事な美学だったとも言える。
主観の論理
しかし、その論理はあくまで“主観的”なものである。本人も「私はすべてを自分の論理に引き寄せる」と語っている通り、普遍性を持たない閉じた思考体系だ。
誰もが日本刀を持っているわけではないし、誰もが地位や名声を得ているわけでもない。三島の死は、ある意味で自己中心的な完成への執着であり、社会的立場や環境によって支えられた特権的選択だったとも言える。
「死」や「完成」は、個の外にある普遍的な力に帰属するのではないか?金、地位、肉体――それらは自己の力で獲得したものではない。ならば、その“最期”をも自己の手で決しようとする姿勢には、どこか傲慢さがあるように思う。
真の英雄とは
三島が理想とした「英雄的な死」は、確かに劇的だった。だが、英雄とは本来、誰にも知られず、孤独に死ぬ存在ではないか。観衆と仲間に囲まれ、演出されたような死よりも、誰の記憶にも残らず飢えて倒れた詩人の方が“真の英雄”だと筆者は考える。
たとえば、モーツァルト、エドガー・アラン・ポー、ボードレール、ロートレアモン。彼らの多くは、生前には評価されず、貧困や病に苦しみ、ひっそりと世を去った。しかし、その孤高と誠実こそ、後世に「真実」を響かせているのではないか。
三島の死は、華やかすぎた。それは演劇的であり、他者――群衆――を必要とするものだった。だが、他者を必要とする「死」は、本当に個の完成と呼べるのだろうか?
まとめ:神に委ねるということ
筆者はキリスト教徒ではないが、「自殺」はいかなる美学であっても“反則”だと思っている。生まれることが自分の意志ではなかったように、死もまた、自己の判断を超えた力に委ねるべきではないか。
それを「神」と呼ぼうと「運命」と呼ぼうと、本質は同じだ。人知を超えた「摂理」に身を委ねることこそ、人間の美学であるように思う。
三島は偉大だ。しかし、その意識が地球の外や天体の次元まで広がっていれば、もっと大きな「完成」に至っていたかもしれない。
◯関連レビュー→舩坂弘【関ノ孫六・三島由紀夫、その死の秘密】解説・紹介
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