「禁欲」と「節制」の違い
――欲望に忠実なのが節制、己を欺くのが禁欲
「禁欲」と「節制」は似て非なるものである。どちらも「欲望を制御すること」に見えるが、その内実は正反対だ。ここでは、それらの違いを欲望の観点から捉え直す。
禁欲――それは欺瞞
禁欲とは、自分の本当の欲望を否定し、押し隠し、自己を欺くことから始まる。
たとえば、誰かに侮辱されたとき、君は本当は怒りに燃え、殴ってやりたいと思っている。だが、相手が自分より強いと知っているため、怖くて行動に出られない。そうして怒りを抑え、「大人な対応をした」と自己正当化する。
しかしそれは勇気ではなく恐怖の産物であり、誠実な克己ではなく、自己欺瞞に過ぎない。
性欲と正直さ
例えば女性と関係を持ちたいと思う。しかし君は「禁欲」を装い、性欲を否認する。なぜか? モテないから。勇気がないから。
本当は欲しているのに、手に入らないがゆえに「自分は清くあろうとしている」と思い込む。こうして君は、自らの情欲、誇り、怒り、あらゆる本能に嘘をつき始める。
禁欲とは、偉さではなく、往々にして臆病と無力の言い訳である。
節制――欲望に忠実であること
対して節制とは、欲望を否定するのではなく、「ちょうどよい量」を知る知性である。
美味い飯を好きなだけ食えば、やがて気分が悪くなる。過食は快楽を超えて苦痛へと変わる。酒も然り。性欲もまたしかり。
節制とは、欲望を肯定し、それに忠実に生きた先に、己の限界と快楽の閾値を知ることによって育つ。
欲望に従ってこそ、哲学は生まれる
いい車に乗りたい、金が欲しい、異性にモテたい――よろしい、追い求めよ。全力で。
いつか、それらが自分にとって本当にくだらないと感じられる日が来るかもしれない。そのときこそ、「禁欲」や「節制」について語ればよい。ただし、最初から自分を偽ってはならない。
偽善者は、正直な悪人にすら劣る。
自慰・食欲・怒り――欲望を通して知る
エロ動画が観たいなら観ればいい。自慰をしたいならすればいい。いつか、それらに対して本当に「飽きた」「汚らわしい」と心から思えるその日まで。
ラーメンの大盛りを食べたいなら、食べればいい。いつか満腹の苦しさが快楽を超え、身体がその欲望を否定する日まで。
侮辱されたなら殴ればいい。怒りとは人間の自然な感情であり、禁じるべきものではない。だが、怒りがいかにして自分自身を傷つけるかを、本当に体験するまでは、抑える必要はない。
Those who restrain desire, do so because theirs are weak enough to be restrained,
—— William Blake, “Marriage of Heaven and Hell”
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