映画『パッション』レビュー|キリストの受難を描いたメル・ギブソンの衝撃作

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【メル・ギブソン監督】『パッション』レビュー|キリストの受難に触れるとはどういうことか

福音書をそのまま映画にしたような作品

俳優メル・ギブソンが監督を務めた映画『パッション』(2004年公開)は、イエス・キリストの受難を徹底して描いた作品である。宗教映画というよりは、血と苦しみによって構築された”映像による祈り”、あるいは”視覚的黙想”といったほうがふさわしい。

この映画では、イエスが生きていた時代の言語(アラム語、ラテン語など)を忠実に再現し、吹き替えも字幕も原則として最小限。観客は、まるで2,000年前のユダヤの空気の中に身を置いているような感覚を味わう。

配信サービスでは観ることができず、鑑賞にはDVDを用いるほかないが──そうまでしてでも観る価値がある。これは単なる娯楽作品ではないからだ。


ゲツセマネの祈りと人間の恐れ

映画は、イエスが捕縛される直前の夜、オリーブ山の麓・ゲツセマネの園で祈るシーンから始まる。この場面は、神の子としてのイエスが、人間としての弱さや恐れを最も露わにする瞬間である。

「この杯を私から取り除けたまえ」と父なる神に訴えるその姿は、聖書に書かれた福音の中でも、最も人間的で苦しみに満ちたイエスの姿として印象的だ。

受難とは、単なる苦痛の体験ではない。キリスト教においてそれは「贖罪(atonement)」と呼ばれ、人類の罪を背負い、自らを犠牲として捧げることで人間を神と和解させるという教義の核心に位置している。

この映画はその神学的核心を、言葉ではなく「肉体の裂け目」として、我々の前に突きつけてくる。


あまりにも血に塗れた十字架の道

イエスが兵士たちに捕らえられたあとは、福音書に忠実な受難の物語が続く。裁き、侮辱、茨の冠、鞭打ち、十字架の道行き、そしてゴルゴダの丘での磔刑。

この映画が大きな論争を呼んだ理由は、こうした暴力描写があまりにもリアルで、過激で、観るに堪えないほどだったからだ。

筆者自身、初めてこの映画を観たとき、途中で目を背けた。あまりにも生々しく、容赦がなく、「もう二度と観ない」とさえ思った。だが、16年を経てあらためて向き合ったとき、そこには以前には見えなかったものが映っていた。

それは、イエスがなぜこんなにも傷つき、血を流さねばならなかったのかという問いであり、それは私自身に突きつけられた内的な審問だった。


十字架刑と鞭打ちは本当にこんなに酷かったのか?

古代ローマの十字架刑は、単なる処刑法ではなく、見せしめと屈辱と拷問を兼ね備えた「死の演出」である。鞭打ちは、金属や骨のついた鞭で肉を裂くものであり、現代の感覚では想像を絶する。

この映画における描写は、誇張されているという声もある。しかし筆者は「誇張」と「真実」のあいだを50:50で揺れ動く。

むしろ現代の我々が、キリストの受難をあまりに綺麗な象徴、あるいは抽象的な神話のように捉えてしまっていたことにこそ、問題があるのではないか。信仰とは「受難を忘れること」ではなく、「それを直視すること」なのだという声が、この映画の背後から聞こえてくる。


神の子羊の血は、現代の我々にも降りかかる

この映画は、宗教を信じる者にとっても、そうでない者にとっても、強烈な問いを投げかける。

「人がここまで痛めつけられる必要があるのか?」

「信仰とは、耐え忍ぶことなのか?」

「この血に、意味はあるのか?」

ある外国の女性は、この映画を観たショックで心臓発作を起こし、亡くなったという。決して気軽に観ることはすすめない。だが、これを観たあとには、何かが心の中で変わっているはずだ。

それは罪の意識かもしれないし、祈りのようなものかもしれない。あるいは、ただ静かな絶句かもしれない。


結びに──見るという十字架

『パッション』は、「見ること」が一つの受難であることを教えてくれる映画だ。観客は傍観者であることを赦されず、知らぬ間にその苦しみの目撃者として、無言のうちに参与させられる。

イエス・キリストは「神の言葉が肉となってこの世に来た存在(ロゴスの受肉)」である。メル・ギブソンはそのロゴスを、血と肉と骨の現実に再び呼び戻した。まるでスクリーンそのものが、裂かれた幕(ヴェール)であるかのように。

その幕の向こうに何を見るか──それは、あなた自身の信仰の問題である。

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