「生命の樹」
『創世記』にはパラダイスである”エデンの園”の中央に「生命の樹」があり、その”すぐ近く”には「善悪の知識の樹」があったと伝えられている;後の方の樹からは造物主は決して食べてはならないとアダムに命じ、もし食べたならあなたは死ななければならないのだと。
結果的にアダムの伴侶だったイヴが蛇に乗り移ったサタンすなわち悪魔に欺かれ、禁断の樹の果物を食べ、それを夫のアダムにも与える。こうして夫婦は造物主から呪われ、楽園から追放され、”死ななければならなく”なると。
このエピソードを中心にして長い詩にしたのがミルトンの『失楽園』である。
●関連→ジョン・ミルトン【失楽園】レビュー〜サタンの失墜と人間が楽園に戻るまで(1)
罪の業(karma)
前回の記事では情欲は”心”から起こると書いた;情欲イコール罪そして罪イコール死だとすれば、この情欲を利用して悪魔は人間を死に至らせているということになる。このメカニズムは非常に巧妙なので、欺かれないためには間断なき祈祷および瞑想が必要である。
行為すなわち業とは、肉体を意図的に動かすことであるとするならば、罪の行為は手や足を動かすのみならず、眼球を操作する視神経を動かすこともまた然り、である。何となればほとんどの情欲は目から入ってきて目から出て行こうとするからである。
問題は目をつぶっていても情欲は心から発生し、心に像(イマージュ)を形造るということである。その像が眼球を介して外部に対象を求める、これが”行為”となる。
●前の記事→【ソクラテスの弁明】「無知の知」とは何か〜プラトン対話編より読むデルポイ神託秘儀
無垢なる性欲
告白すると私は色情狂である:いつも女の尻の穴のことばかり考えており、いつもそれを舐めたいと欲している。女の身体で一番好きなのがこの部分だからだ。つまり私の”想像”には常に女の尻の穴が浮かんでいるということだ。
この欲望はたとえ地獄に落ちようとも永遠に消えることはないと確信できる。なぜなら欲望とはエナジーに他ならず、エナジーは永遠の歓喜だから(ウィリアム・ブレイクの詩から真似て)。
この欲望を「生命の樹」または「善悪の知識の樹」に譬えるならば(なぜならどちらにせよ心から発生する”想像”である以上)、後の方の”想像”と前の方のそれは区別され異なるのだということ、この区別こそが善悪を知ることに他ならない。
罪を犯す前の人間は”無垢”だったはずであるが、だからと言って性的快楽から遠ざけられていたのではないと考えられる。このことは同じ愛の営みにも”清らかな”ものもあれば、”汚らわしい””嫌らしい”ものもあることを思えばすぐ理解できる。
●関連→【ウィリアム・ブレイク】まとめ記事〜知覚の扉を開く預言者の詩
万歳
注意すべきは造物主が人間を楽園から追い出すとき、呪いをかけ死を予告しはしたが(さらに楽園に入れなくするために回転するケルビムの炎の劔を守護につけはしたが)、永久に楽園が失われたとは書いていないことだ。
ミルトンの『失楽園』にも楽園回帰は書いていないが、人間が悲劇的致命的な罪を侵した、とは考えてはならないのであって、あくまで『創世記』で言っているのは「善悪の知識の樹」の禁断の実を造物主の命令に背いてでも人間が食ったということなのである。
つまり「善悪の知識」なるものは、それだけ大きな犠牲を払ってでも手に入れる価値がある、と進言しているかのようである。
次回は<無垢なる性欲>について考えてみようと思う。。。女の尻(ケツ)の穴万歳!!!