“Portavit eum ventus in ventre suo.”
北風と命のはじまり
古代ギリシャの人々は風に人格を与え、方角ごとに神の名を与えた。北風は「ボレアス」と呼ばれた神で、生殖の力をもつと信じられていた。プリニウスの記述では、雌馬が北風に尻を向ければ子を宿すとも言われている。
確かに北風は寒々しく、木々の葉を枯らし、死の印象を与える。だが視点を変えれば、それは大地を休ませ、新たな生命を孕ませる風でもあるのではないか。
聖書にもこうある。「あなた方は風がどこから来てどこへ行くのか知らない。霊によって生まれる者もそのようである」。古代人は風なくして事象は起こらず、生命は発生しないと信じていた。
だが彼らは決して遠い昔の存在ではない。2000年前とは、100歳の老人を20人並べるだけの時間だ。私の祖母もまもなく100歳。そんな時間感覚で風の思想は受け継がれてきた。
風に宿るダイモン
ボブ・ディランも歌った。「答えは風の中にある」と。風は音もなく語るもの、あるいは何かを伝える存在だった。古代の教父アウグスティヌスも、風の中に「ダイモン」がいると説いた。
“ダイモン”はプラトンにも登場する、人と神の中間に位置する霊的な存在である。アウグスティヌスにおいては、それはしばしば「悪魔」と等価に語られた。風とは、目に見えぬ力を運ぶ媒体であり、時に畏怖の対象でもあったのだ。
風の神託
「風の声に耳を澄ませる」などという言葉があるが、忙しい現代人には縁遠い話かもしれない。けれどもしあなたが風の吹く静かな野に立つ機会があれば、ぜひ耳を澄ましてみてほしい。風には確かに“声”がある。
古代人は風に揺れる木の葉のざわめきから、神託を読み取った。鳥の飛び方や生贄の内臓からも兆しを見た彼らにとって、風はもっとも身近な啓示だったのかもしれない。
「逃げるアタランテ」最初の図像から学ぶべきは、風は実体であるということ。そして、それは人や物の運命を左右する、強力な力であるということだ。
デカルトは言った。「自然に空虚は存在しない」。海が水で満ちているように、大地は風=空気で満たされている。我々は、空気という見えない海の中を泳ぐ存在だ。
魚が水を泳ぎ、鳥が空を泳ぐように、我々もまた風の中を生きている。そして、その風には、古代人が恐れ敬った“何か”が棲んでいるのかもしれない。
コメント