【仏の血を流す】五逆罪より見たる日本仏教の罪科
仏教伝来と四恩の道
此の稿は、学究的厳密を期すものにあらず。むしろ、己が胸中の思ふところを綴り、「仏の血を流す」といふ大逆の詞を借りて、日本仏教の在り様を問ひ直さんとする、いはば随筆風の試みなり。
中華の禅語に曰く、「仏を殺す」。これは破戒の奨めにあらず。むしろ既存の観念や権威を破壊し、新たなる見地を開かんとする比喩にほかならぬ。かのサド侯爵が西洋にて行ひし如く、真の背信とは形式の虔誠を装ひ、心の信なき者にこそ宿るものなり。
さて、我が国に仏教の教へが伝来せしは欽明天皇の御代と伝ふ。その教義を広め、寺塔を建て、制度として定着させたるは聖徳太子にてまします。もしや皇統の存在なくば、仏法は今に至らず、我が国もまた異国に呑まれて跡を留めざりしやもしれぬ。是を四恩と申す。
空海と最澄、そして見えざる衆生
景戒の筆になりし『日本霊異記』は、慈恩の志にて記されたものであるが、これを読み得たるは貴族や学僧のみにして、広く民草に届くものにあらざりき。
奈良・平安の御代を経て、菅公の如き賢者現るも、仏教は民間に及ばず。清少納言らが宮中にて詞を弄し、優雅を誇る頃、田畑にて汗を流す民は、教法の何たるかにすら接することなかりし。
空海は真言を開き、最澄は天台を広めしも、これ貴人の神事・娯楽に堕し、修羅の如き僧兵たちが権門に従ふ様は、『平家物語』の記述にも明らかなり。キリストの名を唱へつつ剣を振るひし十字軍と、果たして何の異なりや。
鎌倉新仏教の分岐と迷走
日本仏教、真に生気を帯びたるは鎌倉の頃までにして、室町の後はもはや凋落せり。江戸・明治を経て、今日に至るまでその衰退は見るに耐へざる。
今や仏法は、ただ葬儀と法要の機械的手続きと成り果て、僧はサラリーマン然として勤め、経は意味も知られぬまま唱えられ、参列者は倦怠の時を過ごす。これをして信仰とは呼び得るや。
鎌倉以降の仏教に於て、最も大きなる誤りは二つあり。「禅」と「念仏」これなり。いづれも仏教を称すれども、真に仏の心を慮るものにはあらず。
禅は「ただ坐る」ことを本義とし、念仏は「南無阿弥陀仏」と唱ふれば往生すと説く。はたして、かかる単純さが仏陀の深奥の智を語るに足るものか。
念仏宗批判──甘美なる幻想の罠
まず念仏について申さば、これは浄土宗・浄土真宗・時宗などに属するが、殊に浄土真宗はもはや救いがたし。
彼らは阿弥陀の名を賛美すること詩篇の如し。天国の描写は砂糖水のやうに甘く、宝石の地、清らかなる乙女、飢えも寒さもなき桃源郷──かかる幻想は「浄土三部経」により振り撒かれ、衆生は迷妄に沈みし。
彼らは地獄を恐れ、浄土を望む。その恐怖と願望の間に挟まれ、ただ「救われたい」という欲に駆られて念仏を唱ふる。これ、信仰といふよりは自己保身にすぎぬ。
『大乗起信論』の末尾に本願の記述あるも、それは方便にして、正法を捨てて本願一辺倒となすは、法を軽んずるものなり。
禅宗批判──姿かたちの信仰
禅は、ことに現代において流行の兆しあり。だが、その本質は虚ろな形骸に過ぎず、2、3時間坐した程度にて、修行者を名乗るは片腹痛し。
釈尊は苦行の果てに中道を得、達磨は壁に向かひて九年を坐したといふ。慧能に至りては文字すら知らず、悟りを得たり。されど現今の禅者らは、法衣を纏ひ、スキンヘッドにして、静寂と空調の整ひし道場にて坐す。はたしてこれを仏道と呼び得るか。
法を語るに美辞麗句をもってし、マイクを通して読経をなす。これ、俗世の演劇に等しからずや。
結語──仏の血を以て仏を問ふ
ここに至りて、筆者が言ひたきことは、ただ一つ。「仏を殺せ」とは、既存の観念を打破し、真実の教へに還ることなり。
仏法は、ただの儀式にあらず。唱へることに価値があるのではなく、悟りを得んとする「心」が問はれてゐるのである。
軽々に念仏を称し、姿だけの禅に耽る者よ──汝こそ仏を殺す者なり。しかしてその血は、仏の皮を被りたる己が身に降りかかるであらう。
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