【サド『閨房哲学』レビュー】禁忌の寝室で展開される反道徳的対話と思索
はじめに:異端の哲学書か、過激な小説か?
『閨房哲学』(Philosophie dans le boudoir)は、マルキ・ド・サドによる一種の“反道徳的啓蒙書”である。形式は対話体、内容は性と政治と宗教に対する極端なまでの懐疑と批判に満ちており、これを「哲学書」と呼ぶにはいささか躊躇を要する。しかしながら、マンディアルグが指摘したように、その構成と思想の展開は、まさにサドの核心を表す著作である。
日本語訳は澁澤龍彦による抄訳が知られており、その文体は端正にして過激、訳者の美意識と知識が細部にまで行き届いている。とはいえ、卑猥な描写や論争的表現は一部割愛されており、その点では完全版とは言い難い。
構成と対話体という形式
本書は、未熟な少女を“啓蒙”するために集められた複数の人物(ドルマンセら)による七つの対話から構成される。各対話は順に、宗教・道徳・社会制度・政治・性・教育といったテーマを取り上げ、激烈な否定と反抗の論理が展開される。
この形式は、プラトン的対話に着想を得た構造である。だが、サドの対話にはソクラテスのような懐疑の余地はない。登場人物は自らの信念を一方的に開陳し、反論は形式的にしか用意されない。すなわち、「哲学的対話」の外形を借りながら、内実は政治的パンフレットと倫理的挑発の集積である。
とりわけ第五の対話では「フランス人よ、共和主義者たらんとせば、いま一息だ」という小冊子が挿入され、個人的快楽と社会的革命とが結びつけられる。ここにおいて、自由主義的快楽主義と啓蒙主義的暴力が不可分に結びついている点が注目される。
キリスト教批判とその意味
サドは本書を通じて、キリスト教に対する執拗なまでの攻撃を展開する。イエスは「詐欺師」「ユダヤの淫婦の腹から生まれた」と形容され、三位一体の神学は「化け物のような構成」と断罪される。こうした言辞は、近代以前の異端思想やルネサンス期の反教権主義とも共鳴する一方で、18世紀的な理神論(Deism)や無神論の先鋒としてのサド像を補強するものである。
ただし、サドの批判は単なる無神論の主張にとどまらず、宗教の抑圧的装置としての機能を暴露するものである。信仰とは支配の道具であり、性と快楽を罪と結びつけることによって、人間の欲望を制度的に制御する手段となっている。その意味で本書は、啓蒙主義の影に生まれた“反-啓蒙”の哲学とも位置づけられる。
グノーシス主義的文脈とマンディアルグの評価
マンディアルグは『ジュリエット』という評論の中で、『閨房哲学』をサド作品の中でも最も完成されたものとして挙げている。その理由の一つに「対話体による美しい構成」と「哲学的理念の純粋さ」があるという。
興味深いのは、マンディアルグがグノーシス主義的視点をもってサドを評価している点である。グノーシスとは「知ることによって救われる」という理念であり、これはサドの世界観に通底している。キリスト教的世界秩序の欺瞞を暴き、真の自由と快楽を得るには、「知る」こと——つまり禁忌を越えて世界の真理(あるいは反真理)に達することが必要なのだ。
この点において、ブレイクの『天国と地獄の結婚』における「悪=活力」「善=受動性」という逆転論理や、ミルトンの『失楽園』でのルシファー賛美的構造とも、思想的な照応が見られる。
澁澤訳と読後の余韻
澁澤龍彦の訳業は、日本におけるサド受容の原点を築いたと言っても過言ではない。彼の訳は品位を保ちつつ、内容の過激さを損なわないバランスを保っている。ただし、「残念ながら一部割愛した」という訳者のあとがきに物足りなさを感じる読者も少なくないだろう。
それでも本書は、「お腹いっぱいになる」ほどの濃密な思想的読書体験をもたらす。反道徳的言説、宗教批判、官能と政治の融合は、単なるポルノグラフィを超えて、一種の思想実験空間を提示している。
結語:サド的思想と“悪の知”
『閨房哲学』は、哲学書の体裁を借りながら、むしろ「悪の知」を讃美する対話的異端文学である。そこにおいて展開される思想は、「啓蒙」や「理性」といった価値そのものに対する挑戦であり、善悪の境界を崩す知的アナーキズムの形をとる。
現代の読者にとって、この書物は単に過激な思想の遺物ではなく、自由と欲望と知性の関係を再考させる鏡でもある。サドを読むとは、善悪の彼岸において「快楽とは何か」「知るとは何か」を自らに問うことに他ならないのだ。
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