【COVID-19】人類を救うアメリカ映画のプロパガンダあるいは「感覚」についての論稿
DEATH|映画よりも現実がスリリングな時代
かつて私はアメリカ映画が好きで、よく観ていた。過去形なのは、もはや現実の方が映画よりはるかにスリリングだからだ。
ゲームも映画も日常の“退屈”から非日常へと旅する手段だったが、ある日を境にその境界は崩壊した。外出できず、ラーメンすら食べに行けなくなった。
CGとパターン化されたプロットの量産、“ヒット作”とされるものにすら私は興味を失った。途中で再生を止めてしまうことも珍しくない。
映画の夢が、現実の生々しさを超えられなくなった。演技よりも、生の世界の方がはるかに「リアル」なのだ。
LORD|この世界の神と教育の不和
私は1970年、日本に生まれた。アメリカの影響下で育ち、現代教育を受け、学校を出てからは自ら知を求めて西洋の宗教と哲学へと向かった。
だが、そこにある大きな欺瞞に気づいた。「主」――イスラエルの神は2000年も前から“やがて来る”とされているが、いまだにその姿を現さない。
キリストも“すぐに来る”と約束したが、雲の上には宇宙ステーションしかいない。つまりこの神は、民を支配するために聖職者が政治的に使った偶像でしかなかった。
PLATON|哲学と感覚の逆転
哲学者プラトンやデカルトに倣い、私は長らく「感覚は信頼できない」と考えてきた。だが今、私はそれを裏返したい。「最も信頼すべきは、感覚である」と。
いかに真理が普遍であろうとも、それを言葉にした時点で歪みは生じる。だからこそ、聖典にも哲学書にも、真理そのものは宿らない。
私は1970年に日本で生まれた。それは変えられないし、いかに異国の思想を読もうとも、私は私以外になれない。自分の体、自分の生まれ育った現実を、私は生きるしかない。
CAR|身体という名の一人用乗り物
自転車や車ならば他人と共有できる。だが身体は違う。他人の身体は使えず、自分の身体は誰にも貸せない。
つまり、私が感覚できるのはこの身体だけなのだ。そしてこの身体が感じる現実こそが、最も確かである。
歴史的偉人の言葉も、印刷された本の文章も、テレビもネットのニュースも、最終的にはすべて“他人の感覚”でしかない。
だから最後に残る真実の場所とは――自分の身体、そして感覚されるこの世界、そのものだ。
参考リンク
【サイン】予兆について。および上から見る心の露出。さらに視聴覚の原型。宝石。
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