【憧れ】目に見える神々への崇拝、あるいは激しい欲情
はじめに|このブログの立場表明
こんにちは、読者諸君。当ブログは小銭稼ぎの目的で始まったが、その役目は果たされた。今では、好きなことを気ままに書く場所と化している。
「言葉」を金に換えようとは思わない。私が読みたいものだけを綴る。それらの核心は“封印”されており、読者諸君がそれに触れることはない。
コスプレイヤーと肉体への崇拝
時折、コスプレイヤーの尻に不意な情欲が湧く。それは彼ら(彼女ら)の“肉”に起因する。皮下脂肪に包まれた肉体は、どこか魔の象徴のように機能している。
それを囲む狂乱の群衆。彼らは光の粒となった画像を崇拝し、網膜に映った電気信号に熱狂する。“デジタル祭壇”に祈る時代の寓意である。
神格化と無知の構図
人間が人間を拝んでいる。それは宗教を模倣するが、祈りの対象は神ではなく偶像である。気づかぬままの無知、それこそが恐ろしい。
スティーブ・ジョブズが「世界を変える」と言ったのは事実だ。そしてそれは成功した。人はポケットの小さな神殿から端末を取り出し、無意識に指を這わせて世界の幻を覗き込む。
自分を“個”だと錯覚する者がいる。だがもし私の息子であったなら、その夜に黙って葬るだろう。救いようがない。
ブラッド・ピットと感情の転倒
お台場に現れたブラッド・ピットに悲鳴を上げる女たち。マイケル・ジャクソンのコンサートで発狂する観衆――気持ちは理解できる。だが、なぜ?
それは「より高次の存在」を知らないからだ。より深い幸福、より崇高なXという段階を誰も知らず、求めようともしないからだ。彼らの生きる世界には、ABCDEFまでしか存在しない。
Xを知る者にとって、既存の栄光など、糞の山に等しい。
無知と偶像の黄金化
“糞の山”という表現は釈尊やチベットの聖者も用いた。人はそれを黄金だと思い込み、拝む。
それが「無知」である。無知の中では、糞も宝石となり、小人が巨人に見える。
今日、私は図書館で鈴木大拙の『日本的霊性』を手に取った。だがすぐ棚に戻した。明日死ぬかもしれぬこの身に、今読む本ではなかった。
それが日本思想界の頂点であるなら、私は別の星に生きているのかもしれない。
日本という風景
私は自分が“日本にいる”という感覚を放棄している。だが同時に、ヒヨドリが日本固有の野鳥であることは、魂に刻み込んでいる。
三島由紀夫が切腹し、その首を斬られたこと。それを想うたび、私は“呼吸”や“消化”の器官が交差する“頸”の尊さに思いを馳せる。動脈が断たれたその瞬間、確かに死が訪れるのだ。
南無阿弥陀仏。
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